音鳴りさん
昭和3x年の春。
僕は幼い頃からよく耳にしていた音があった。
いつもうたた寝をしているときに聞こえる音だ、一度もその音を発しているものの姿は見た事はなかったけど、家の外のすぐそばの路地の方か聞こえて来ていたと思う。
その音は、煎餅や海苔の缶をものさしで叩いた時に出る様な音だった。それが連続で鳴りつづけ、近くの道を移動していく。いつも聞こえて来る音だから、全く気にする事はなかった。
「こらっ! またやったね! そんな事すると音鳴りさんが来るよ!」
母は僕が悪戯をすると、決まって「音鳴りさんが迎えに来る」と脅しをかける。僕はそれをずっと「お隣さん」だと思ってたんだけど、友達のツトムが「音鳴りさん」とか「音鳴りさま」とか言うお化けの事を言っているのだと教えてくれた。
『だけど、音鳴りさんってなんだろう』
僕はツトムに聞いてみた。
「うーん、うちの母ちゃんは子供をさらうって言ってたぜ」
『え? じゃぁ大人はさらわれないの?』
「そりゃそうだよ、だって大人だもん」
さらわれたらどうなるのか話さなかったけど、以来僕は「音鳴りさん」を何だか怖く感じる様になった。
母は「音鳴りさん」が効果あるのをいい事に、事ある毎に使う様になった。
戸棚の中のお菓子を覗くと「音鳴りさんが見てる」とか、家の中を走ると「後ろから音鳴りさんが走って来る」とか様々だった。
ある日の昼、僕がうとうとしていると、遠くからまたいつものあの音が聞こえてきた。いつもは過ぎ去って行く時に気が付くのだけど、今日は遠くからやって来る時に気が付く事が出来た。
僕は一目見てやろうと思い、急いで起き上がって家の外に飛び出して辺りを見渡してみた。まだあの音が聞こえている、こっちに近づいていると思ったけど、思ってたよりも遠くに居る感じだ。
聞こえてくる音を頼りに近づこうとしたけど、結局見つける事が出来ないまま音は消えてしまっていた。
しょぼくれて家に帰ると、縁側で母が洗濯物を取り込んでいるのが見えた。
『なぁ母ちゃん、今してた変な音ってどっちいったん?』
「変な音? 何も聞こえなかったけどねぇ。それよりこの洗濯物、中持ってって」
そう言って、母は乾いた洗濯物が入った籠を渡した。
母は洗濯物に夢中で、音に気が付かなかったみたいだ。仕方ない、次来たら今と逆方向を探してみよう。次の作戦を練った僕は、洗濯物の籠を両手で持って家に入った。
その日の夕方、ツトムと遊んで別れた後、少し遊び足りずに川の土手で石の下で寝ている虫を探して遊んでいた。ほんの少しのつもりだったけど、つい夢中になって虫が見えにくくなって、やっと辺りが暗くなっている事に気が付いた。空を見上げると月が出ていた。
早く帰らないと母に叱られてしまう。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、僕は家に向かって走り始めた。ツトムと別れた時に、ちゃんと帰ればよかったと悔やんだ。
息が切れて走る足も徐々に遅くなり、僕は歩き始めた。急いでるのに何でもう走れないんだろう。川の方から風が吹いた。まだ薄い草の匂いがした。僕は早く夏にならないかなと思った。
僕が土手を歩いていると、暗い中にぼんやりと月明かりに照らされた人影が現れた。突然だったから少しびっくりしてしまったけど、その人影が女の人とわかると僕はほっとした。
女の人は僕に「こんばんわ、僕」と挨拶して来た。
僕はちょっと驚いて「こんばんわ」と言い、「僕を知ってるの?」と聞くと、その女の人は「町中の子は全員知っている」と答えた。
その女の人は僕の近くに寄って来た。よく見ると、背は大人みたいだけど学生服を着ている。僕はこの女の人はまだ子供なのだと思った。多分、高校生とか女学生とかいうのだろう。女の人は脇に大きな自転車を転がしながら歩いていた様だ。僕はもしかして乗れないのかなと思った。
「今日はずいぶん遅くまで遊んでたのね」
女の人は落ち着いた口調で言った。
『あっ! そうだ! 早く帰らないと母ちゃんにまた怒られる』
帰りの途中だった事を思い出し、走ろうとしたら女の人が僕を呼び止めた。
「自転車に乗ってけばすぐよ。送ってあげるね」
僕は女の人の自転車の大きな荷台に乗せてもらった。荷台はゴツゴツしていてお尻が少し痛かった。
しっかりつかまっててと言われ、僕は女の人のお腹にしがみ付いた。すると、女の人のお腹がまるで、中身がからっぽの紙の筒の様に感じた。とても不思議に思ったけど、早く帰らないとと言う気持ちがその疑問をかき消した。
でも、女の人の自転車が走り出したとたん、僕はとても驚いてしまった。それは、この自転車からあの音がしたからだ。いつも聞いていたあの音。煎餅や海苔の入った空っぽの缶を、ものさしで叩いた様な音が、僕が乗っている自転車から発せられている。
ずっと正体がわからなかった、あの音の正体はこの自転車だったんだ。この女の人は、いつも僕の家の近所を通っていたんだな。どうして自転車からこんな変な音がするのかは分からなかったけど、昔から聞いていたこの音に心細さは消えて行った。
家の手前で僕は自転車から飛び降りた。母に見つからずに家に入ろうと思ったからだったけど、母は家の前に立っていて、げんこつで頭をボコッと殴られた。
『いってぇーっ!』
「ほら、さっさとご飯食べちゃいなさい!」
母が家に入ったので、僕は女の人にさよならを言おうと振り返った。でも、あの女の人の姿はもうどこにもなかった。母が怒ってたから驚いて帰っちゃったのだろうか。耳を澄ましてみたけどあの自転車の音はしなかった。
それから、遊びの帰り道にあの女の人とよく出会う様になった。自転車の大きな荷台のゴツゴツした感じにももう慣れた頃。
僕は女の人の事を「お姉ちゃん」と呼んでいたけど、名前は聞いてなかった事に気が付き、女の人に聞いてみた。女の人が名前を言った時、丁度隣を通った車の音にかき消されてしまって聞こえなかったのだけど、何故か分からないけど聞き返せなかった。
女の人は何故いつも僕の帰り時間が分かるのか、そして何故自転車に乗せてくれるのか、その疑問は仲良くなった今思う事はなかった。
それよりも、送ってくれた後、いつも僕が振り返ると女の人が居なくなっている事が不思議だった。
今日もまた、女の人が僕を家に送ってくれている。乗っている自転車からは、あの音が鳴り響いている。そんな時、自転車を漕ぐ女の人の背中にそっと耳をつけると、音が女の人の背中から聞こえてくるみたいで面白かった。
初夏を迎え、段々暖かくなって来た頃、僕は近くの川に出かけていた。その日は、ツトムは親と出かけていたので、僕は一人で遊んでいた。
いつもの様に、ザリガニやおたまじゃくしとりに夢中になる内、辺りは靄で真っ白になってしまっていた。
こうなるのは、川の水が周りの空気より暖かいからだって聞いた事がある。ここらではたまになる事だから、別に怖くなんてない。それでも、少し心細くなった僕は、遊ぶのをやめて川の土手に沿って歩いていた。いつもの橋を目印に逆方向へ曲がれば家の方向なのだけど、いつまで歩いても橋は見つからなかった。
その内に霧雨が降り出してしまい、歩く速度を速めたら段々と川からも離れ、やがて見覚えのあるお寺にたどり着いた。そのお寺は、いつも家で初詣で行くお寺だった。
既にびしょびしょだったけど、境内の階段に座って雨宿りをする事にした。空から落ちて来る雨を眺めている内に、だんだん体が冷えて来て、僕の体は少し震えはじめていた。
急に寂しくなって涙が出そうになった頃、あの音が近づいて来た。
女の人はいつもの様に制服姿で、自転車を脇に転がして歩いていた。この時、あの自転車が青い色だと言う事を初めて知った。女の人は、僕を見るとにっこり微笑んで近付いて来た。一人で心細かったから、女の人に出会えて嬉しくて僕も微笑んで返した。
いつも会うのは僕が遊びから帰る時の夕方だったから、明るい内に会うのは初めてだった。その時、女の人の顔がはじめてちゃんと見る事が出来た。それは、とても優しい顔をして僕を見ている顔だった。僕はこんなお姉ちゃんが欲しいなと思った。
「今日は雨宿り?」
『うん……』
「そんなに濡れて、寒いよね」
寒さで震える僕の隣に女の人は座ると、覆いかぶさる様にして温めてくれた。とても温かくていい匂いがした。でもこの人、雨の中で傘も差してなかったのに全然濡れてない。とても不思議な事だけど、それを言う気にもなれず身を委ねている内に眠くなって寝てしまった。
それから夢を見ていたのかもしれない。どこからともなくあの女の人と、もう一人。別の女の人が話している声が聞こえて来た。
話し声は、あの女の人が少しごねていて、別の女の人がなだめている様だった。「……ちゃん、この子は違うのよ」と、言っていた気がする。何の話をしてるのだろうと思いながら、僕の意識は眠りに落ちて行った。
目が覚めたのは、寺の和尚さんに起こされた時だった。起きると僕はたくさんの葉っぱの中に埋もれていて、和尚さんは困った顔をしていた。
どれだけ時間が経ったのかは分からないけど、雨は上がっていて靄も消えていた。そして、びしょびしょに濡れていたはずの僕の服は、まるで濡れなかったかの様に乾いていた。
辺りを見渡したけど、女の人の姿も自転車も見当たらなかった。
その日からぷっつりと、遊びの帰りに女の人が現れる事も、あの音を聞く事もなくなってしまった。僕も暫くは気にしていたのだけど、その内に忘れてしまっていた。
すっかり夏になった頃、僕はいつもの様に川に遊びに来ていた。この川は左右の川岸付近は、膝こぞうより浅くなっているんだけど、真ん中辺りは深くなってて流れも速い。泳ぎがうまければ真ん中でも遊べるんだけど、僕はまだ泳げないから、真ん中へは近づかない様にしていた。
今日の目的は、ザリガニのヌシを捕るためだ。ヌシは普通のより大きいザリガニで、子供達の間では有名だった。みんな狙ってるんだけど、まだ誰も捕る事は出来ていない。
僕は川の中を注意深く探していた、すると大きなザリガニが歩いているのが見えた。とても大きいザリガニだ、ヌシに間違いない。
焦る気持ちを抑えて、僕はゆっくりとヌシに近づく。影が映ると逃げちゃうから太陽に向かう方向で、ゆっくりヌシに近づくんだ。
そしてそっと手を差し出し、水の中へ沈めて動きを止める。心の中で1、2、3と数えて素早くヌシの背中を掴みに行った。しかし、ヌシは泥煙を巻き上げて僕の足の間を通り抜けて逃げてしまい、指先がヌシの背中を掠めただけだった。
僕は悔しく思って、ヌシが逃げた先を探すと、二メートル位離れた所を歩いていた。次こそは、と思って振り返ようと足を上げようとしたんだけど、僕は足を取られて体勢を崩してしまった。一箇所でじっとしてたせいで、足が川底の泥深く沈んでいたみたいだ。
僕は川の中に顔から落ちてしまった。ちょっと冷たいけど、暑いから気持がいい。ここら辺りは浅いはずだから、手をつけばすぐに立ち上がれるだろう。それに今日は暑いから、少し位濡れた方がいいんだ。そうだ、今のも暑かったからわざとって事にしよう。などと思いつつ、手を川底につけて起き上がろうとした時、僕はある異変に気が付いた。
伸ばした手の先には、やわらかい泥の感触がするだけで、手がもぐってしまって起き上がる事が出来なかった。そればかりか、段々と体は川の中心の方へと滑って行く気がした。
息をする為に横を向いたら、何とか水面に顔は出せたのだけど、どんどん体は川の中心に滑ってしまっている。とうとう僕は、流れが早くて底の深い川の真ん中に落ちてしまった。
僕は泳げないから、川の真ん中には近づかない様にしていた。そのはずなんだけど、ヌシが居たのはその手前だったみたいだ。僕はヌシに夢中で、川の真ん中に近づいた事に気が付かなかった。
このままでは流されてしまうと思って、急いで浅瀬に戻ろうと手を伸ばしたのだけど、もう手が届かない位に流されてしまっていた。
さっき僕が居た所にヌシが見える。それはまるで、ヌシがこちらをじっと見ている様な気がした。その時、僕はヌシがバチを当てたんだと思った。
僕は手の届く場所に、片っ端から手を伸ばして色んなものを掴もうとしたんだけど、草は千切れてしまうし泥は崩れてしまう。もう顔も沈みかけて息は長く続きそうもなかった。僕はこのまま死んじゃうのかもしれないと思い始めていた。
段々と水の中へと沈んでいこうとしていた時、川縁を何かが走っている影が見えた。何だろうと思っていると、それは僕の目の前に飛び込んで来た。僕は無我夢中にそれにしがみ付くと、中身が空っぽの筒の様な感触がした。
川を流されつつも必死にしがみ付いていると、いつの間にか水の中から上がれる位浅くなった所にたどり着いていた。そこから陸に上がれたものの、とてもへとへとだったせいか、僕はさっきまでしがみ付いていたものの事をすっかり忘れてしまっていた。
その時だった、後ろであの音がした。煎餅や海苔の入った空っぽの缶を、ものさしで叩いた様な音だ。その音が、僕のすぐ後ろの川の中から聞こえた。
ハッとして振り返ると、さっきまでしがみ付いていたものはもうそこにはなく、川下の方を白っぽい何かが流れていくのが見えた。
居たたまれなくなって、すぐに土手を走って白いものを追いかけたのだけど、ヘトヘトの今の僕の足では追いつく事は出来なかった。流れて行く白いものは、遠くの方に流れて消えてしまった。僕は何故だかとても悲しくなって、一人泣きながら家に帰った。
この時を最後に、あの音は二度と聞く事はなかった。
***
時は経ち十数年後、僕は大人になって東京で働いていた。久々にまとまった休暇がとれ、実家に帰省しようと、懐かしいこの街の駅に降り立った。
途中、商店街に立ち寄ると、小さな本屋の脇に置かれた古びた自転車に目が行った。僕はどこかで見た様なその自転車が、すぐにあの女の人のものだと言う事に気が付いた。今までも同じ形の自転車はたまに見る事はあったのだけど、この自転車はあの自転車だと僕は確信した。
女の人の自転車は青い色だったけど、これは黒い色に塗りなおされている。近くに寄って眺めると、大きく感じた荷台は、大人になった僕にとって大きくはなくなっていた。
すぐに本屋に入ると、僕は黒い自転車の事を聞いてみた。もしかしたらここがあの女の人の家かもしれない。もしそうならもう一度会いたい。そんな想いが浮かんでいた。
本屋の主人は読んでいた本を畳み、老眼鏡を外して机の上に置くと僕の質問に答えてくれた。
あの自転車は、十年以上昔に川に捨てられていたものを見つけて直したのだそうだ。塗装は酷く痛んでいた為黒く塗りなおした。そして、元の色は青だったらしい。
やはり間違いじゃなかった。僕は新しい自転車と交換で、自転車を譲ってくれる様頼んだ。主人は酷く困惑していたが、昔の想い出を語りつつ頼み続けた為、根気負けしたのか譲ってくれると言ってくれた。
今は年で自転車には乗れないからと無料で譲ってくれると言ったが、それでは余りにも虫のいい話になってしまう為、店の奥のガラスケースに入った街の歴史が書かれている本を買わせてもらった。結構な値段のする立派な本だったけど、この街についてあえて勉強した事もなかったし、いい機会になるだろう。
懐かしい自転車に乗って、街を走ってみるとあの頃を思い出す。僕はあの頃よく通っていた川岸を走っていた。あの頃と比べると道も川の土手も綺麗になり、柵まで出来て当時の面影は薄らいだけど、あの頃を思い出すには十分だ。
これで後はあの音さえしてくれればと思うけど、今のこの自転車からは、油が切れた様なキィキィとした音が発せられるだけだった。
川にかかった小さな橋を渡り、そのまま真っ直ぐ進んで実家へたどり着いた。川と家は思っていたよりずっと近い。あの頃はずいぶんと遠く感じていたけど、それは体が小さかったからなのだろうな。
居間でくつろいで母と昔の事を話す内、何故か音鳴りさんの話になった。音鳴りさんか……。僕が小さかった頃はとても怖かったっけ。
僕が昔聞いていた音鳴りさんの話は、完全におばけ話だったのだけど、実はもっとちゃんとした実話があるのだそうだ。
それも想像よりもずっと最近の話で、第二次世界大戦の最中に誕生したのだと言う。それは、かつてこの街に住んでいた、ある姉と弟の絆の物語だった。
戦争中、余り栄えていなかったこの街は、民家はあれど殆ど空襲を受ける事は無かったらしい。当時は今と違う場所に商店街があって、そこの近くに二つだけ爆弾が投下されたのだった。
その日、戦死した父親が買ってくれたビー玉の1つををなくしてしまった弟を、思わず姉は叱りつけてしまった。家を飛び出した弟は、行き場もなく商店街にたたずんでいた。その時、運悪く爆弾の被害に遭ってしまったと言う。
弟の遺体は、子供としかわからない程に焼け焦げていて、姉はその遺体の側で呆然と立ち尽くしていたそうだ。
しかし、姉はその遺体を弟と認めようとはせず、きっとどこかに隠れてお腹を空かして居るのではないかと、青い自転車で町中を探しまくっていた時期があった。
それから間もなく、上空を通過中のB29爆撃機が火を噴き、民家に墜落すると言う事故が起こった。不幸は重なるもので、そのB29が墜落した民家は、亡くなった弟の姉と、その母が住む家だった。
民家は押しつぶされる形で全壊して炎上。かなり広範囲の火事になった。その事故で姉と母親は帰らぬ人となったが、B29爆撃機の米兵数人は、民家がクッションになった事によって奇跡的に生存していて、そのまま捕虜となったらしい。
その様な背景があったのだけど、事はその時からはじまったのだった。青い自転車に乗り、弟を探して回る学生服姿の姉の姿を、この街のあちこちで目撃したと言う話がされる様になった。古びた自転車からは薄気味悪い音が鳴り響いていて、その音と共に現れる事から「音鳴りさん」と呼ばれる様になったそうだ。
気味悪がった町の人々は、姉の御霊を鎮める為に近くの寺に小さなお堂を建てた。すると、それ以降は自転車に乗る姉の姿を見る者はなくなったそうだ。
母の話を聞いた後、僕は懐かしい自分の部屋で、音鳴りさんの事を考えていた。父親をはじめ弟と母、そして自分自身も戦争によってこの世を去った少女。
少女は、自分が死んでしまった後も弟を探し続けていた。きっと自分の事より、弟の事を気にしていたのだろうな。僕はあの女の人が、音鳴りさんだったのではないかと思った。
もちろん、あの人が音鳴りさんかを確かめる術などない。だけど、雨に濡れて体が冷えた僕を温めてくれた事や、いつも僕の帰りを見守ってくれていてくれた事を思い出すと、不思議と気持ちが和んだ。
でも、あの女の人は何故現れなくなったのだろう。
僕はその頃を思い出そうとしたのだけど、子供の頃の記憶は曖昧で、記憶を時間軸に乗せる事に苦戦した。
ごろりと天井を見て転がると、ふいに川で溺れた時の事を思い出した。そうだ、あの日近くの川でザリガニのヌシを捕ろうとしてた僕は、川底の泥に足をとられて深い場所に落ちて溺れてしまったんだ。流される僕は、とっさに目の前に落ちて来た、浮かぶものにしがみ付いて助かったんだっけ。そう言えばあの掴んだものって、中身が空っぽの筒みたいな感触がして、まるであの女の人の様だったな。
僕を助けてくれたのは、あの女の人だったのだろうか。それとも偶然流れて来た何かだったのだろうか。
思い出したのは、あの日からあの女の人が現れる事がなくなったと言う事だった。もし、アレがあの女の人だったとしたら、僕の身代わりに流されてしまったのだろうか。
本屋さんで買った歴史書には、音鳴りさんのお堂の事が少しだけ書かれていた。驚く事に、そのお堂はあの雨宿りした、近所のお寺の敷地にあるらしい。僕はついに、あの女の人と音鳴りさんの接点が見つかった様な気がした。
僕は一瞬で飛び起きると、すぐに近所のお寺へ向かった。お寺は家から100メートル程度とかなり近い距離にある。子供の頃はもっと遠くに感じていたけど、大人になった今はとても近かった。
お寺の入り口から石段を上ると、幼い頃と変わらない古い本堂が見えた。赤い柱で組まれた建物、真ん中にはお賽銭箱。その上には鐘があって、太い綱が垂れ下がっている。どこからどこまでもが、ごくありきたりのお寺だ。
お寺は、辺りに人気もなく静かだった。少し風が吹き、本堂を囲む木々はざわざわと鳴っていた。僕はお賽銭箱に小銭を放り投げると、家内安全と無病息災を祈った。
周囲を見渡して例のお堂を探すと、端っこの方にそれらしきものを見つける事が出来た。木で出来たお堂は、両手で抱えられる程に小さい。手入は余りされている様子がなく、かつて赤かったと思われる塗装の色は、はげてしまって所々壊れていた。
ふと扉に目をやると、蝶つがいが外れて隙間が空いていて、そこから中に祭られているものが見えた。中には割れた瓢箪と、小皿に入ったビー玉があった。もう何年もほったらかしにされているらしく、砂埃だらけだった。
その時、足元にポトリと何かが落ちた。拾ってみると、それは古びたビー玉だった。僕が近づいたせいで、少し傾いたのだろうか。僕は扉の隙間からビー玉をお堂の中に入れると、割れた瓢箪にコツンと当る音がした。
お寺から家に帰ると物干し台に、母が趣味の工芸で使う白い瓢箪が干してあった。中身を取り出す為に、瓢箪は口が広めに開けられている。
何気なく手に取ると、中身が空っぽの筒の様な懐かしい手触りがした。小さい頃、自転車に乗って女の人に掴まった時と同じ手触りだ。
それから思いついた様に僕は物置を探し続け、やがてある物を見つけた。深い緑色のガラス玉、ビー玉だ。僕が小さい頃に遊んでいたものだ。
そのビー玉を、瓢箪の中にいくつか入れ、中でビー玉が跳ねる様に振ってみると、まさしくあの音が鳴り響いた。
『そうか、これだったんだ……』
思わず僕は独り言を呟いた。
諦めていた確かめる手段を、ついに見つける事が出来た。やっぱり、あの女の人が音鳴りさんだったんだ。
数日後、東京に戻った僕は、あのお寺の和尚に今までの事を伝えると共に、一つの約束をしていた。東京で働いてお金を貯めて、絶対にあのお堂を直すと言う約束だ。和尚は幼い頃の話に余り驚く事もなく、約束についても快く承諾してくれた。
それから三年が経ち、綺麗に修復されたお堂の前に僕は今立っている。この中には三つの瓢箪が供えられている。そしてその中にはあのビー玉が。
風が瓢箪を悪戯したのだろうか、あの懐かしい音が鳴った様な気がした。
帰宅中、変な音を発しつつ走っている自転車を見かけました。
カカコカカコカコカ……! カカコカコカカカコ……!
などと言う音を響かせて、若い女性がこいでいました。
何だか印象に残ったので膨らませてみました。
これと、
私の住む町なのですが、爆弾が二つだけ投下された事と、B29が炎上して落下して、乗組員が捕虜になった事は事実です。