前編
みんながとても楽しそうだから、僕は反って憂鬱なんだ。
凍ったレモネイドの頑なさで僕は白けた顔をする。
水滴が湿度を上げている気がして、それもうっとおしい。
「今日は祝日なんだよ」
妹が無邪気に言う。
「だからなんだよ。いつもと変わらない」
テレビのチャンネルを次々に変えながら、でもきっと僕が見ていたい番組はひとつもない。
「まだ母さんの事を怒ってんのか? 」
それもあるけど、それだけじゃない。
僕は誕生日を忘れられた惨めな子供なんかじゃない。
「そうじゃないよ」
「いいじゃない一日ぐらい遅れたって」
「お前はうるさい」
いちいち妹の一言がカンに障る。
母を空港に迎えに行くまでは時間があった。
浮かれきった妹のように僕も単純なら良かったのに。
「今日は家族みんなで夕食だな」
「わたしハンバーグがいい」
「なんでもいい」
「じゃあファミレスで好きな物を注文するって事にしよう」
外食の時は決まって近所のファミレスになる事が多い。
あまり堅苦しくないので僕も賛成だった。
「賛成」
僕の機嫌が治ったと判断した父は中断していた部屋の片付けを再開した。
本当にもう少しだけ世界が単純だったら楽なのに。
朝から晴れていた空は昼過ぎには鈍よりとした雲に覆われていた。
父の運転する車の助手席で僕は一番最初の雨粒を確認した。
それからすぐに世話しなくワイパーが動かされた。
「お母さんの飛行機大丈夫かな」
妹が不安そうに言う。
父もきっと同じ事を考えたのだろう。
「大丈夫、雲の上なら晴れているだろう」
そう答える父の顔を僕はそっと盗み見た。
空港に着いてすぐに連絡をとると、ベイルートからの横風が強く、母の飛行機は離陸できないでいるそうだ。
それでも飛び立った後じゃない事に僕ら三人は安堵のため息をついた。
「お母さんの飛行機飛ばないの? 」
「ああ」
「夕飯までには間に合わないね」
「残念だが今日も三人の夕食になりそうだな」
「ええ、嫌だぁ」
「仕方ないだろう」
「祝日なのに」
なぜか妹は祝日にこだわっているようだった。
「父さんだけで迎えに行くから」
「私、待ってるもん」
「待つといっても何時になるか分からないぞ」
「いいじゃない父さん、もう空港まで来たんだし。もう少し待ってみようよ」
「お前まで」
僕自身も、今から引き返すよりは母を待っていたい気がした。
「仕方ないな」
妹だけでなく僕まで待つと言った事に父は驚いているようだった。
空港の待合室はかなり広々としていて落ち着かなかった。
僕と妹は退屈を紛らす為に少し探検する事にした。
父は長丁場に備えて仮眠をとる事にしたようだ。
空港の壁は一面がガラス張りになっており天気が悪いのがよく分かった。
不安になりぐずり出す妹をあやしながら僕は通路を歩いた。
いろいろな国のいろいろな服装の人が現れては消えていった。
「お兄ちゃん、トイレ行きたい」
「あぁ、トイレならさっきの所を右に行けばあるよ」
「うん分かった」
着いてきて欲しそうな顔をしていたが、僕はあえて無視した。
すぐそこだったし、迷う距離じゃない。
でも、その考えが間違いだった。
数分待ってから、急に不安になり、トイレのある通路に向かった。
しかしそこは向こう側からも入れる構造になっており、トイレはさらに奥にあるようだった。
出てくる時に、同じような構造になっている逆側の出口に向かってしまう可能性もある。
まだトイレから出て来てない事を願って、僕はその通路の真ん中で妹を待った。
しかし、待っても待っても妹は出てくる気配がない。
僕より後から入った女性客もほとんど出て行ってしまった。
僕も妹も携帯なんて持っていない。
父の所に戻っていればいいが、そうでなければとても面倒だ。
わがままで口うるさい妹だが、一人で心細い想いをしている所を想像すると急に胸が痛んだ。
「レイカ、こっちだお兄ちゃんはこっちだぞ」
とりあえず反対側の出口から出たと考えて僕は妹を探す事にした。
外はだんだんと暗くなっており、照明がつきはじめた。
だだっ広い空港のロビーには一人もお客がいなかった。
さっきまでは確かに数人いたはずだが、どこかに消えてしまったようだ。
「レイカー」
精一杯大きな声を出したはずなのに、床に敷かれた厚みのあるカーペットがそれを全部吸い込んでしまう。
あまりに人が居ないので、不安になってきた。
従業員すら見当たらない。
とりあえず父の所に戻ろうと僕は来た道を戻る事にした。
しかし、トイレに通じる通路に入ると、逆側の出口が消えうせていた。
最初から何も無かったように無機質な壁がそこにはあった。
「あれ、間違ったのかな」
僕は少し離れた所にあるもう一方の通路に向かった。
絶対に間違うはずがないのだが、道が無いのならそれしか考えられない。
胸騒ぎが止まず鼓動が激しく打つ。
しかし、もう一方の通路にも出口は一つしかなかった。
「レイカー父さーん、どこにいるのー」
さっきよりも大声で叫んでみたが虚しく響き、壁に遮れてしまった。
僕は訳のわからない空間に一人ぼっちで閉じ込められてしまったようだ。
トイレの中にも入ってみたが、やはり誰も居ないようだった。
「父さん、ううぅ」
怖くて心細くて足が震える。
広すぎるロビーのどこにも自分の居場所がない。
壁にかかった時計は午後九時を回っていた。
僕は勇気を出して、屋外への扉を押した。
直接滑走路に出るわけじゃなく、屋上のような所だ。
雨はもうほとんど降っていなくて、生温かい湿った風が顔にあたる。
まるで日本じゃなく、南の島にいるようだった。
そういえば、飛行機の耳を劈く音も全くしない。
なんだか現実じゃないみたいだ。
この世界にはきっと自分しかいない。
父さんも母さんも妹のレイカも居ない。
ぴんぽんぱんぽん。
「港内の皆様にお知らせします。本日は祝日、本日は祝日でございます」
アナウンスの声はレイカの声だった。
「祝日は家でごちそうを食べます」
「祝日は学校はお休みです」
「祝日にはピクニックへ行きます」
ずっとそんな調子でアナウンスは祝日のあったかもしれない予定を伝え続けた。
僕は少しおかしくなって笑ってしまった。
「なんだよ祝日って」
僕は少しだけ泣いて、屋内に戻った。
誰も居ないと思っていたロビーに人影を見つけた。
それは、人間じゃなかった。
「やぁやぁ遅かったね」
そして喋った。
「わしは人攫いを生業にしている、たぬきだ」
確かに風貌は狸のようにも見える。
「お前さん、祝日の国は初めてか」
「祝日の国? 」
「そう、祝日に一人でいるような子供だけがここにやってくる」
たぬきなので表情がまったく読めない。
「お前は自分の意思でここに来たんじゃないのか」
「一人じゃないよ、三人で来たんだ」
「分ってないな、一人じゃないとこんな所に迷い込むものか」
僕は少し考えてみた。
「妹を探してるんだ」
「妹さんなら帰ったよ、おやじとおふくろと一緒にな」
「なんだって? 」
「お前は忘れられたんだよ、だから帰る道がない」
ショックだった。
そんな馬鹿な。
父さんもレイカも僕を忘れるはずがない。
「嘘だ、そんなのは」
「まぁ、わしとしちゃ好都合な訳だが」
たぬきは首をゴキッと鳴らして見せた。
「嫌だ、僕はどこにも行かないぞ」
身の危険を感じ、僕はたぬきから離れた。
「まぁ、そうなるわな」
たぬきは急に顔の毛を逆立てて歯をむき出しにした。
僕は怖くなって走り出した。
後ろから急ぐわけでもなく、ゆっくりと近づいてくる。
どこにも逃げ場がない。
狭いところはかえって危ない。
ロビーの中を僕はぐるぐると回って逃げた。
「どこにもいけねえよ、大人しく捕まっとけ」
「嫌だ」
トイレに向かう通路は袋小路になっており、たぬきはそこに僕を追い込んだ。
「さぁ観念しな坊主」
たぬきの毛むくじゃらの手が伸びる。
「お兄ちゃん? 」
その時、トイレからレイカが現れた。
「レイカ、逃げろ」
僕はそう叫んでいた。
「え、お兄ちゃんどうしたの? 」
「いいから少し離れて」
その言葉に従って、妹は離れた。
「妹は帰ったんじゃなかったのかよ」
「ち、面倒なこったぁ」
「もう騙されないぞ」
「二人で祝日の国に入国するなんざありえねぇ話だ」
「知るか」
妹に忘れられたわけじゃないと分ると自然と勇気が出た。
「そうか、お前ら別々に……」
たぬきは何か気付いたようだ。
「なんだよ、デタラメ言ったって信じないぞ」
「二人なら手はだせねぇ、そういう決まりになってる」
「だったらあっちいけ」
「はいよ」
たぬきはあっさりと引き下がった。
「お前ら二人とも忘れられたみたいだな、かわいそうに」
「な、違う」
「まぁお前らに用は無くなった。そろそろ潮時かな」
たぬきはどこからか取り出した葉っぱを頭に乗せた。
「あばよ」
そういうと白い煙が立ち上りたぬきを覆い隠した。
次の瞬間には、影も形もなくなっていた。
「お兄ちゃん」
それを見ていたレイカが抱き着いてくる。
「もう大丈夫だ」
「さっきのは何? 」
「さぁな、人攫いって言ってたけど」
「ヘンシツシャ? 」
「そうそう、レイカも気をつけろよ」
「うん」
二人になって、僕は少しだけ落ち着きを取り戻した。
レイカは何が何だか分っていないようだ。
「お父さんは? 」
「お父さんは今、お母さんを迎えに行ってる」
「うん」
「だからお兄ちゃんから離れるなよ」
「わかった、何だかいつものお兄ちゃんじゃないみたい」
「うるせぇ」
二人で手を繋いで、出口を探したがどこにもなかった。
たぬきの言っていた言葉が頭をよぎる。
「そうだ、レイカさっきのアナウンスはお前か? 」
「え? なんのこと? 」
「アナウンスだよ、本日は祝日ってやつ」
「わたしは知らないよ」
「そっか」
僕等はとりあえず、ロビーに戻った。
するとさっきまでは居なかったのに誰かいるようだった。
「ん、なんだね君たちは」
それは大きなとかげだった。
四つん這いで舌を出し入れして言った。
「ここは祝日の国、だれの許可をえて入国した」
「知らない。勝手に連れてこられたんだ」
「むむ、パスポートを持っていないのか」
「そんなの知らない」
「そうか、不法入国の容疑で逮捕だ」
とかげは器用に尻尾を引きちぎって僕たちの手首に巻きつけた。
「おい、話しを聞けよ」
「あぁ、わかった話は署で聞く」
「おい、やめろ」
僕たちはとかげに連れられれて外に連れ出された。
出口なんてなかったのに、都合よくドアが現れた。
「お兄ちゃん、私たち逮捕されるの? 」
「大丈夫、きっと事情を話せば帰らせてくれるさ」
「そうね」
「とにかく空港からは出れたし、お兄ちゃんに任せとけ」
「うん、絶対帰ろうね」
僕たちはパトカーではなく荷車に乗せられて、連行されるようだった。
町は僕らの住んでいた風景にとてもよく似ていた。
でも風だけは湿り気を帯びていた。