Fight! (4)
早瀬の家に行くとお母さんがいて、
「まあ、ぴい子ちゃん、久しぶり!」
と、ふくよかな腕で吉野先輩を抱きしめた。
それを見て、早瀬が吉野先輩に人前でも平気で抱きついていたことに、なんとなく納得した。
早瀬のお母さんは色白のぽっちゃりした美人で、カールした長い髪を上品に結んで肩にたらしている。
奥の方から音楽が聞こえるのは、お父さんがチェロの練習中とのことだった。
お母さんはマリンバ奏者だと聞き、音楽家の両親を持つ早瀬が、自分とは別世界の人みたいに思えてくる。
「親の職業は、俺には関係ないよ。」
気後れしているあたしを早瀬は笑った。
吉野先輩が言ったとおり、手作りのチェリーパイはとても美味しくて、上品なティーカップに淹れてもらった紅茶と楽しいおしゃべりで、あっという間に1時間が過ぎる。
結局、勉強はしないまま、吉野先輩も一緒に帰ることに。
早瀬のお母さんが吉野先輩のことを「ぴい子ちゃん」と呼ぶことを何気なく早瀬に言ったら、早瀬は笑いながら説明してくれた。
「もともとは、真悟と俺が『ぴい子』って呼び始めたんだ。陽菜子が小学校に上がる前、俺たちのいたずらで、しょっちゅうぴーぴー泣いていたから。『ぴい子』っていうのは泣き虫っていう意味なんだよ。」
「やだ、響希、黙っててよ。」
吉野先輩が早瀬をにらむ。
「あれ? 鳥のヒナとは関係ないのか?」
あ、お兄ちゃんはそういう解釈をしてたんだ・・・。
「そっちはあとから陽菜子がこじつけたんだろう? 小学校に上がったあと、陽菜子の友達が、俺たちが『ぴい子』って呼んでるのを聞いて、 “ちゃん” をつけたりして変わっていったみたいだよ。そういえば、吹奏楽部の高橋先輩が、陽菜子のことを『ぴい子』って言ってたけど?」
「あれは偶然。べつに泣き虫だからじゃないもん。」
吉野先輩がつんと澄まして答える。
それから、ため息をついて。
「あたしの名前って、3月3日生まれだから『ひなこ』なんだよ。字は当て字でね。名前もあだ名も、適当なんだよ。藤野くんや茜ちゃんや響希がうらやましい。」
「でも、先輩。どっちも可愛いですよ。雰囲気が先輩に似合ってて。」
あたしの言葉にお兄ちゃんもうなずく。
吉野先輩は「そうかな?」と首をかしげてから、「まあ、いいや。」と笑った。
お兄ちゃんが吉野先輩を駅まで送って行き、あたしは途中で別れてひとりで家へ。
最後の角を曲がると、家の前で笹本先輩が待っていた・・・。
はっきり言って、忘れてた。
早瀬の家で美味しいおやつをご馳走になって、楽しいおしゃべりですっかりいい気分になっていたから。
そのいい気分のおかげで、笹本先輩の前に立っても落ち着いていられる。
そんなあたしとは反対に、笹本先輩は落ち着かない様子。
あたしが笑顔を見せないせいもあるけど、まだ機嫌が悪いと思ってるよね?
「あ・・・、あの、茜ちゃん。」
自転車を降りたあたしに、笹本先輩が話しかける。
いつもは余裕の微笑みを見せている先輩が、今は困り切った様子で、チラチラとあたしを見るだけ。
「はい。なんでしょう?」
本当は笑い出しそう。
でも、ここが頑張りどころだ!
吉野先輩の目つきを思い浮かべながら、あたしは冷たい(と見えるつもりの)目を向ける。
「あの・・・、ごめん!!」
そう言って、先輩が深々と頭を下げる。
あらら・・・・。
こんなことされたら、怒ってなんかいられない。 ・・・もともと忘れてたし。
でも、まだダメ。
「何がですか?」
あたしの質問に、先輩は体を起して、情けなさそうな顔をする。
「あの、今日の・・・、」
「茜。」
ママ?!
家の方を振り返ったら、玄関からママが出てきたところ。
「家に入ってもらったら? 30分も待ってくれてたんだから。あたしはこれから一時間くらい買い物に行ってくるから、留守番お願いね。」
30分?!
「すみません!」
今度はあたしが頭を下げる。
「あれから早瀬の家に行ってて。」
「え? 早瀬くんの家・・・?」
先輩がますます情けない顔をしたのを見て、そういえば奈々が・・・と思い出す。
まあ、いいか。
「あら、茜、早瀬くんの家に行ってたの?」
「あ、うん。早瀬のお母さんとおしゃべりしてきたよ。」
「ちゃんとごあいさつできたの?」
「大丈夫だよ。」
もう高校生なんだよ?
「きのうはすぐに帰っちゃったけど、また遊びに来るように言っておいてね。じゃあ、行って来ます。」
ママの言葉を聞いて、笹本先輩が一層ショックを受けた顔をしたのを見て、あたしは心の中で拍手喝采。
ママ、ナイスタイミング!
ママを見送って、先輩を家に案内する。
あたしの部屋に通すのは気詰まりな気がして、一時間あれば話は済むかな、と思いながら、先輩にリビングのソファを勧める。
先輩はソファに浅く腰かけて、緊張した様子で下を向いたまま。
さっきのあたしの視線、けっこう効果があったのかも♪
コーヒーを出そうとカップを用意したところで、ふと思いなおして冷蔵庫を開ける。
あった。
100%りんごジュース。
「どうぞ。」
コースターにグラスを乗せて先輩の前に置くと、先輩はやっとあたしを見たけど、その顔にはいつもの自信はまったく見当たらなくて・・・ちょっとかわいいかも。
向かい合って座るのはなんとなく堅苦しく思えて、テーブルの横、先輩と90度の位置で床に座る。
「あのう・・・。」
「はい。」
「早瀬くんとは・・・仲良しなの?」
あら。最初にこの話題?
もしかして、先輩・・・かなり気になってる?
「ええと、仲良しっていうか、まあ・・・。」
早瀬が仲良しなのはお兄ちゃんだけど、まだ教えてあげない!
「気軽に家を行ったり来たりする間柄なんだよね・・・?」
「あの、先輩? それを確認するために30分も?」
早く用件を言わないと、一時間はすぐに過ぎちゃいますよ!
「あ、いや、そういうわけじゃ・・。」
笹本先輩は顔を上げて軽く息を吸うと、あたしを真っ直ぐに見た。
「茜ちゃん。」
「はい。」
「今日は大人げないことしちゃって、ごめん。」
「はい。」
「それから・・・、その・・・。」
頑張れ、先輩!
「俺、茜ちゃんに・・・、あの、言いたいことが・・・。」
先輩は目元を赤く染めて、あたしから視線をはずしてしまった。
やっぱり、言ってくれないのかな?
電機屋さんでもそうだったし、吉野先輩も言ってたけど、これほど恥ずかしがり屋さんだなんて・・・。
少しの間、組み合わせた手を見つめていた先輩が、ちらりとテーブルのグラスに視線を向けてから、決心した様子でソファから降りて、あたしと斜めに向かい合う。
その勢いで、あたしの両手を取って。
鼓動が一気に速くなる。
「茜ちゃん。俺、茜ちゃんのことが好きで・・・。」
カチャ。
「ただいまー・・・。うわ! ごめん!」
バタン!
急いで階段を上る音。
・・・お兄ちゃん。
帰ってくること、忘れてた。
玄関の音も気付かなかったよ・・・。
「あの、ええと、どうしたら・・・?」
笹本先輩が半分腰を浮かせて、おろおろと部屋を見回している。
本当に恥ずかしかったのね・・・。
「先輩。落ち着いてください。お兄ちゃんは出て行きました。大丈夫です。」
ひと言ずつ区切っていうと、先輩はようやく腰をおろして、あたしを見てくれた。
「あの・・・?」
まだ目がぼんやりしているみたい。
顔だけじゃなくて、耳も、首も真っ赤になったまま、下を向いてしまった。
「もう一回、言わなくちゃダメかな・・・?」
その表情が、その仕草が・・・なんてかわいいの!
思わず先輩の首に抱きついた。まるで、吉野先輩に抱きつく早瀬みたいに。
そして、言わなくちゃ。
「あたしも先輩のことが好きです!」