ぴいちゃんを守りたいのに・・・。(9)
ぴいちゃんが、起き上がって頭を整理すると言うので、そのあいだに俺は、母親にぴいちゃんが目が覚めたことを知らせに行くことにした。
彼女は一緒に行ってあいさつすると言ったけど、起きてすぐに歩かせたら俺が母親に叱られるから、と説得した。
母親は俺が行くとほっとした顔をして、大きなお盆に山盛りのお菓子と2人分のカップを載せ、小さいポットにコーヒーを用意しながら彼女の様子を尋ねる。
「起き上がれそうだよ。もう少し様子を見るけど。」
「そう。よかった。」
俺にお盆を渡しながら、母親がにこにこと小声でささやいた。
「真面目そうな可愛い子だったね。青とお似合いだと思うよ。」
やだな!
急にそんなこと言わなくても・・・。
でも。
ぴいちゃんを気に入ってくれてよかった。
軽い動悸がおさまらないまま自分の部屋のドアを開けると、整えたベッドに腰かけていたぴいちゃんが、こっちを向いてにっこり笑う。
いつもの笑顔。
顔色もだいぶ赤味が戻っている。
あのまま帰さずに、うちに連れてきた判断が間違っていなかったとほっとする。
「携帯にね、響希から連絡がたくさん来てるの。」
そう言いながら、俺からお盆を受け取って床に置くと、カップにコーヒーを注いでくれた。
「早瀬から?」
「藤野くんが部活を休んであたしと帰ったことを知ってて、心配してたみたい。もう平気って送っておいた。」
早耳だな。
それだけぴいちゃんに気を付けているってことだ。
それに比べて俺は・・・。
目を上げてぴいちゃんを見ると、彼女はベッドに寄りかかるように横座りして、両手で包みこむようにして持ったコーヒーカップの中を見つめている。まるでそこに、彼女の心を支える何かがあるみたいに。
「昼休みに何があったのか、話してくれる?」
俺は、俺にできることをするしかない。
ベッドを背に、ぴいちゃんと肩を並べて座る。
ぴいちゃんは一口ゆっくりとコーヒーを飲むと、カップをお盆に戻した。
それから、さっきと同じように俺の右手を両手で握り、脚を伸ばして座り直した上にパタンと置く。
視線を俺の手に固定したまま、ぴいちゃんが話し出した。
「お弁当のあと、図書室に行こうと思って教室を出たら、八木くんに呼びとめられて・・・。」
八木なのか・・・。
俺が注意していなくちゃいけなかったのに。
目を離した俺の責任だ。
「約束があるって言ったんだけど、すぐに済むって言うから一緒に行ったの。」
「どこに?」
「自転車置き場のところ。ほら、校舎の曲がり角のところって、自転車置き場の方に出られるようになってるでしょう? あそこから出て。」
ああ。
中庭から自転車置き場に向かって、くぐりぬけられるようになってるところか。
・・・図書室のすぐ近くだ。
「自転車置き場って、昼間はひと気が無いんだね。あそこの校舎の1階も、わざわざ来る人なんていないみたいで、校庭からも植え込みとか自転車置き場の囲いで見えないんだよ。」
「恐かったんだね。」
彼女の手に、俺の左手を重ねてあげた。
これくらいでは足りないだろうけど。
「あたし、男の子から呼び出されても、その場で行かないって言おうって、前に決心していたの。でも、八木くんとはいつも普通に話していたし、友達だと思ってた。だから安心して一緒に行ったの。だけど・・・『土曜日にデートしよう。』って。で、びっくりして、藤野くんとお付き合いしてるって言ったんだけど、そしたら・・・」
ぴいちゃんが俺の右手を握る手に、ギュッと力が入る。
「思い出すのが辛かったら・・・」
「ううん。ここは大丈夫。」
ぴいちゃんは大きく深呼吸をすると、話を続けた。
「八木くんは、それは知ってるって言ったの。『でも、許婚もいるんだろう?』って。『それに、毎朝、男が会いに来てるじゃないか』って。『俺が一人増えたって、どうってことないだろう?』って。」
え?
どうしてそんな情報になってるんだ?
それに、彼女に向かって、どうしてそんなにひどいことを・・・?
俺の手を握っているぴいちゃんの手が震えている。
話ができなくなって、脚の上に置いていた手を持ち上げて、胸に抱き締めた。
「・・・あたしのことをね、そういうことにだらしない女だと思ってたみたい。」
そう言って、ぴいちゃんは笑おうとしたけれど、それは失敗する。
彼女は俺の右手を抱いたまま深く息を吸い込んで、目を閉じて下を向いた。
ぴいちゃんの鼓動が右手を通して伝わってくる。
「それは・・・、それは誤解で、八木くんとも無理だって言ったら、急に怒っちゃって、『気取るなよ。』って・・・、『本当は男なら誰でもいいくせに。』って言われて、無理矢理抱き締められそうに・・・。」
閉じていた目をさらにきつくつぶって、絞り出すように話すぴいちゃん。
肩に力が入って、身を縮める。
恐かったよね。ひどい言葉だけじゃなくて、力ずくで・・・。
「俺が一緒にいればよかったね・・・。」
ぴいちゃんは下を向いたまま首を振った。
抱き締めてあげたいけど、右手は彼女に握りしめられているので、せめてもと左手をぴいちゃんの頬に。
彼女の話はまだ続く。
「それから、『自分がそういう女だから、彼氏がほかの女とイチャついてても平気なんだろう。』って。ふ・・・、藤野くんのこと・・・、藤野くんのことをそんなふうに・・・、そんなふうに言うなんて! ひどいよ!」
激しい調子でそこまで言うと、ぴいちゃんは息を止めるように体に力を入れて、黙ってしまった。
下を向いたぴいちゃんの肩が震えている。
「藤野くん・・・、ごめんね。あたしのせいで、そんなふうに思われたりして。・・・あたしが、誤解されるようなことをそのままにしていたから。ごめんね・・・。」
―― 俺のこと?
ぴいちゃんがそんなにショックを受けたのは、俺のことを言われたからなのか?
自分のことよりも?
それが、話したくなかった理由・・・?
「違う。・・・違うよ。ぴいちゃんのせいじゃないよ。早瀬には俺から言うことだってできたのに、言わなかったのは俺だし、田所さんのことは俺自身の問題で。」
俺が田所さんに対して、断固とした態度をとれないでいるから。
「ごめん・・・。」
俺のせいでぴいちゃんがそんなことを言われたなんて。
ショックで、悲しくて、情けなくて・・・。
そして、俺がそう言われたことを悲しんで、俺に隠そうと頑張ったぴいちゃんのことが胸が痛いほど愛しくて・・・。
「本当にごめん。」
こんな言葉しか言うことができない俺は・・・いったい、彼女の何なんだ?
ぴいちゃんが大きく息をついて、力を抜いたのがわかった。
「・・・藤野くんは悪くないよ。」
「そんなことない。俺がはっきりしなかったから。」
「違う。あたしが平気な顔をしていなければよかったの。」
「そんな。」
「本当はね、朱莉のこと、ずっと気になってた。だけど、自信がなくて、それを口に出すことができなかったの。藤野くんがほかの女の子を好きになったらどうしようって、いつも考えてしまって。ヤキモチを妬いたりして、嫌われたらいやだと思って、平気な顔してたの。」
「ぴいちゃん・・・。」
気付かなくてごめん。
もっともっと、伝えればよかった。
「ぴいちゃん。好きだよ。」
そんなに恐くて、ショックなことがあっても、俺が待っていた図書室に来てくれたぴいちゃん。
俺に悪口を聞かせたくなくて、全部を自分一人の心にしまい込もうとしたぴいちゃん。
「誰よりも、一番好きだよ。」
ぴいちゃんが顔を上げて俺を見つめる。
大きな瞳が涙でうるんでいる。
泣いちゃうのかな・・・?
ぴいちゃんは口を強く結んで、一度、空気を飲み込むと、一生懸命、我慢するような顔をした。
「無理に我慢しないで、泣いてもいいよ。そういうときのために、俺がいるんだから。」
俺の言葉に彼女の表情がゆがみ、今度こそ泣いてしまうのかと思ったけれど、涙はこぼれ落ちなかった。
少しの時間のあと、彼女は2、3度まばたきをして、ちょっと困った顔をした。
「安心したら、涙が止まっちゃった。」
ぴいちゃんらしい可愛らしさで口にされた言葉にほっとする。
俺が彼女に安心を与えることができたんだろうか?
そうだったら嬉しいけど・・・。
「あのね・・・、」
なんだろう?
「あのね、あたし、人前では泣かないことに決めてるの。」
「どうして?」
「あの・・・、去年のこと。」
「・・・去年?」
「あの・・・、えっと・・・、岡田くんが・・・。」
そう言って、目を伏せるぴいちゃん。
岡田?
泣くことと岡田が、どんな関係が・・・ああ!
そうだった。
岡田が、学校で泣きだしたぴいちゃんを抱き寄せちゃったんだっけ。
「うん、わかった。だから、泣かないの?」
「そう。泣かないことに決めたの。効果が大きすぎるから。でも・・・、」
でも?
「今は泣いたことにしてくれる?」
泣いたことに?
・・・うん。
わかったよ。恥ずかしがり屋のぴいちゃん。
俺の一番大切なひと。
ぴいちゃんの手から右手をそっと引き抜いて、両手で彼女の肩を抱き寄せた。