ぴいちゃんを守りたいのに・・・。(7)
6時間目の授業のあいだも、ぴいちゃんは元気がなかった。
教科書を読むのに当てられたときも、いつもはよく通る声が、弱々しく震えている。
そのまま倒れてしまうんじゃないかと思うほど。
クラス中の生徒の目が、心配そうに彼女に向けられる。
田所さんが振り向いて何か言ったけど、俺の耳にはただの音にしか聞こえない。
意味がわからないまま相槌を打つ。
―― 家まで送って行こう。
6時間目が終わるころには決心していた。
ぴいちゃんは、今日は部活に出るつもりで来ている。
だけど、あの状態では無理だ。
部活には参加できたとしても、一人で帰らせるわけにはいかない。
帰りのHRが終わると同時に、ぴいちゃんのところへ。
俺が送って行くと言うと、彼女は座ったまま俺を見て、また微笑もうとした。
「今日は部活に・・・。」
「無理だよ。」
無理っていうよりも、ダメだ。
絶対に連れて帰る。
「そうだよ。今日は早く帰って休んだ方がいいよ。」
長谷川も同意してくれる。
「根岸。俺、今日は部活、休むから。」
心配そうにぴいちゃんを見ていた根岸が、俺の言葉を聞いてうなずく。
いつもは冗談ばかりの東も間宮も、ぴいちゃんを気遣わしげに見守っている。
ぴいちゃんは、それ以上何も言わずに俺を見上げた。
その顔が一瞬、泣きそうに見えたかと思う間に、微笑みに変わる。
「心配症だね、藤野くんは。」
どうして隠そうとする?
そんなに辛そうなのに。
俺は、そんなに頼りにならないか?
・・・悲しくて胸がいっぱいになる。
二人とも部活を休むと決めたから、教室を出るのを急ぐ必要はない。
ぴいちゃんと俺が放課後に教室に残るのは同級生たちにも見慣れた景色だけど、今日みたいに無言で並んでいるのは違和感を感じるらしい。
授業中の彼女の様子がいつもと違ったこともあって、出ていく生徒の視線がいつもと違う。
中には、俺たちに危機が訪れたと思った生徒もいたかもしれない。
昼休み中の15分の間に、いったい何があった?
ほかの生徒がいる間は訊けなかった。
ぴいちゃんが隠そうとしていることがわかったから。
だけど今は・・・。
尋ねても、「言えない」って言われることが恐くて口に出せない。
何度も「大丈夫」って言うこと、俺の手助けを断ろうとすること。
ぴいちゃんは、俺から遠ざかろうとしているんじゃないだろうか?
彼女に目の前で扉を閉ざされてしまうことが恐い。
もうすでに半分以上が閉じられて、残った隙間に見える後ろ姿のまま、全部閉めてしまおうかと迷っている彼女が見えるような気がする・・・。
「そろそろ行けそう?」
俺の言葉に、ぴいちゃんがうなずく。
「うん。大丈夫。」
また「大丈夫」って言ったね。
全然、大丈夫そうじゃないのに。
まるで、身を守る呪文のように繰り返している。
俺が立ち上がると、ぴいちゃんも椅子の背につかまりながら立ち上がる。
彼女のカバンを持った俺に微笑んで・・・泣きそうになった。
そのまま俺の肩口に額をつけて、寄りかかる。
ずっと顔色が悪かった彼女の体温を感じて、少しだけほっとした。
「ちょっと・・・、ごめんね。」
つぶやくような声。
「うん。謝らなくていいよ。」
「そうだったね。・・・ありがとう。」
泣いてしまうのかと思ったけれど、彼女は何度か深呼吸をして、弱々しい笑顔で顔を上げた。
廊下から階段へとゆっくりと歩きながら、ぴいちゃんが他愛ない話をする。
5時間目の体育で失敗してしまったことや、毎日の登校時に見かける犬のこと、その他・・・。
全部、俺に対して、心配する必要がないことを示すため。
でも、いつもはしっかりした歩き方が、今はふらりふらりと危なっかしくて、階段ではずっと手すりにつかまっていた。
ときどき、意識をはっきりさせようとするように頭を振ったりして。
昇降口から出たところで、自転車で帰れるのか不安になる。
「バスで帰ろうか?」
俺の問いに、ぴいちゃんはまたあの言葉を使う。
「大丈夫。明日の朝、バスで来るのが面倒だから。」
不安に思いながら、俺がぴいちゃんの後ろからついて行くことにして学校を出た。
・・・やっぱり、危ない。
力が出ないからスピードがないし、ハンドルを制御しきれなくてふらふらしている。
わき道から小学生が走り出てきて、急ブレーキをかけたぴいちゃんがそのまま倒れそうになりながら、なんとか持ちこたえた。
それを見て一気に不安が高まる。
駅までなんとか行けたとしても、それから一時間近く、電車に乗っていられるだろうか?
もちろん俺が一緒に行くけど、電車や駅では見知らぬ人の間で、ぴいちゃんはずっと平気なふりをし続けるに決まってる。
どこかで休ませたい。
休ませて、少しでも早く、彼女の悲しみを取り除いてあげたい。
“悲しみ” という言葉が浮かんだことに、ハッとした。
そうだ。
彼女は悲しんでいる。 ―― 何に?
赤信号に気付かずに道路を渡ろうとしてクラクションを鳴らされたぴいちゃんが、慌てて止まる。
そこで心が決まった。
いったん、うちに連れて帰ろう。
この状態で、これ以上、連れて歩けない。
とりあえず休ませたい。
それに、このままぴいちゃんの家まで送って行っても、彼女の心の中の悲しみが消えない限り、何も解決しない。
彼女の家に着いても、そこで追い返されてしまったらおしまいだ。
あとから電話で話しても、明日になってしまっても、彼女は肝心なことを言葉巧みに隠してしまうだろう。
なんとしてでも今日のうちに、直接話さなくちゃだめだ。
ぴいちゃんの横に自転車を並べて、彼女に言う。
「俺が先に行くから、後ろからついて来て。」
うつろな表情のままうなずく彼女に、続けて話しかける。
「いったん、うちで休んで行こう。その状態で一時間近くも電車に乗って行くのは無理だよ。」
「藤野くんの家・・・?」
「うん。もう近くだし。母親がいるけど、気にしなくていいよ。」
「藤野くんの家・・・。」
もう一度そっと繰り返してから、ぴいちゃんが突然、目をぱっちり開けて俺を見た。
「あたし、ちゃんとしてる?!」
行かないって言われるかと不安だったけど。
なんて・・・、なんて・・・。
「いつものとおり、かわいいよ。」
口に出してしまってから、自分の家の近所だったことを思い出す。
慌てて周囲を見回した。
知り合いは見当たらない。よかった・・・。