吉野先輩はお兄ちゃんの彼女だよ!(6)
4月10日、火曜日の朝。
「茜。ちょっとお願いがあるんだけど。」
もうすぐ家を出るというところで、ママに呼びとめられた。
帰りに買い物でもして来い、かな?
「青がお弁当忘れて行っちゃって。寝坊して慌ててたから。」
「え! まさか、あたしに持ってけってこと?!」
「そうよ。同じ学校なんだから、いいじゃない。」
「やだよ、3年の教室に行くのなんか。お兄ちゃんだって嫌がるよ。」
「いいじゃない、持って行ったって。」
「ママが食べればいいじゃん。」
「でも、せっかく作ったのに。」
「だって、あたしが同じ学校じゃなかったら届けないんでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど。でも、実際は同じ学校じゃない。」
「お兄ちゃんは学校の売店で何か買えるよ。忘れた自分が悪いんだから、出費は仕方ないし。」
ママはちょっとむくれた顔をした。
こんな顔をしたってことは、もしかしたら最終手段に・・・?
「じゃあ、もうお弁当作らない。」
やっぱり。
「2人とも学校で買えばいいでしょ。」
もとはといえば、お弁当を忘れたお兄ちゃんが悪いのに、あたしまでとばっちりだよ・・・。
もう! しょうがないな・・・。
「わかったよ。持って行く。でも、今回だけだよ。」
そう言ってもママの機嫌は直らず、ブツブツと文句を言われながら、お兄ちゃんのお弁当を渡された。
この前の朝の渋滞を経験して、奈々とあたしはちょっと早めの8時10分ごろに学校に着くようにしている。
自分たちの教室に荷物を置いてから、奈々についてきてもらって、3年8組にお弁当を持って行った。
3年生の教室が並ぶ3階は、まだ静か。
お兄ちゃんのクラスまで行ってみても、誰もいなかったらどうしよう?
休み時間にまた届けに来なくちゃいけないかな?
てきとうな机にお弁当を置いて、戻って来ちゃおうかな?
3年8組の戸口から中をのぞくと、窓際の後ろの席で女子の先輩が本を読んでいる。
・・・吉野先輩? よかったー!!
「吉野先輩!」と呼ぶと、先輩がこっちを見てにっこりした。
「おはよう。どうしたの?」
軽やかにあたしたちの方に近付きながら、先輩が尋ねる。
「おはようございます。先輩、お一人なんですか?」
「うん、そうなの。自転車通学の人は、みんなギリギリでしょう? あたしは電車が遅れたりしても平気なように早く来てるから。」
ふうん。家が遠いって、大変なんだな。
そうだ。
感心してないで、用事を!
「実は、お兄ちゃんがお弁当を忘れちゃって・・・。」
そう言って、預かって来たお弁当の包みを差し出す。
「あれ、そうなの? しょうがないね。・・・え? もしかしてこれ、あたしが渡すの?」
「お願いできますか?」
「ええ?! どうしよう?!」
・・・そんなに困るようなことでしょうか?
「だって、お弁当を渡すって、なんか、恥ずかしくない?」
そう言いながら、すでに顔を赤くしている吉野先輩。
「それほどでもないような・・・。」
「だって、なんか、あたしが作って来たみたいに思われたりとか・・・。しかも、これ、見るからにお弁当だよね?」
先輩の頭の中には、彼女から手作りのお弁当を渡しているラブラブのカップルっていうイメージができあがってるのかも。
だけど、一目見てお弁当だとわからないお弁当って、いったい・・・?
「あの、じゃあ、誰もいないうちに、お兄ちゃんの机に置いておくっていうのは・・・?」
「ああ! そうだね! そうしよう! 急いで!」
吉野先輩は大慌てでお弁当を受け取り、まるで時限爆弾のタイムリミットが迫ってるみたいな勢いで、走って置きに行った。
そんなに恥ずかしいのか・・・。
この様子を見ていると、教室でお兄ちゃんと話さないのも仕方がないね。
・・・と思っていたら、先輩が途中でくるりと向きを変えて、そのまま戻って来る。
「ねえ。これが机にいきなり置いてあったら、藤野くん、きっと恥ずかしいよね?」
「・・・かもしれませんね。」
たしかにほかの生徒に笑われる可能性大だね。
「ああ! それじゃあ、だめだ。かわいそうだもん。」
そう言って、力なくため息をつく吉野先輩。
お弁当ひとつで、こんなに悩んでしまうなんて・・・。
「でも、自分が忘れたんですから、自業自得ですよ。」
「だけど・・・。」
「陽菜子! おはよう!」
元気のいい男の声?
“陽菜子” って吉野先輩の名前じゃ・・・?
と、思ったとたん、目の前にいた吉野先輩が見えなくなった。
消えたんじゃなくて、黒い学生服に遮られて。
あたしたちと先輩の間に、誰かが割り込んだんだ。
誰?
吉野先輩のことを親しげに名前で呼ぶ男子生徒がいることに驚いて、奈々とあたしがその男の人の横に回り込んでみる・・・と?!
「早瀬?!」
いつもあたしを睨む早瀬が、吉野先輩を思いっきり抱きしめてる!
どういうこと?!
吉野先輩!
どうして平気なんですか?!
お弁当のことくらいで、あんなに恥ずかしがっていたのに?!
「響希、苦しい。」
吉野先輩が早瀬の腕をぽんぽんとたたくと、早瀬はようやく先輩を開放した。
・・・でも。
先輩の肩に手をかけたまま。
「ごめんね、びっくりしたでしょう? 学校ではやめるように言ってるんだけど。」
早瀬の横から顔をのぞかせて、吉野先輩があたしたちにあやまる。
「学校では」って・・・、ほかではOKなんですか?
それに、先輩と早瀬ってどういう関係?
「なんだ、お前か。」
早瀬は先輩の隣に移動しながらあたしの顔を見て、馬鹿にしたようにフフンと笑う。
・・・あたしに向かって初めて笑ったね。
「知り合いなの?」
吉野先輩があたしたちと早瀬を交互に見ながら尋ねる。
「はい。同じクラスで・・・。で、でも、先輩は早瀬・・・くんとは・・・?」
「幼馴染っていうか、弟と同じ・・」
「陽菜子は俺と結婚する予定だから。」
は?
結婚?
それって・・・。
「許婚ってこと?!」
「いや全然そういう・・・」
「そういうこと。」
得意げに言い切る早瀬に2回も途中で話を遮られた吉野先輩が、グーで早瀬の頭をなぐった。
早瀬が頭を抱えてうずくまる。
「あれ? あーちゃんと奈々ちゃん?」
少しずつ増えてきた廊下の生徒の中に、長谷川先輩の姿。
「「おはようございます。」」
「おはよう、まーちゃん。」
長谷川先輩が、あたしたちの足元にうずくまっている早瀬に気付いた。
「あ、響希! 今日も来たの? まったく懲りないね。」
長谷川先輩も知り合いなのか・・・。
でも、長谷川先輩に声をかけられると、早瀬はパッと飛び起きた。
「長谷川先輩、おはようございます! じゃあ、これで失礼します!」
そう言って、大急ぎで去っていく。
長谷川先輩には弱いってわけか。
「明日、部活に行く?」
吉野先輩があたしたちに訊いた。
「あ、はい。」
「じゃあ、響希のことは、そのときに説明するから。」
「はい。では、失礼します。」
違う学年の階の廊下はあたしたちも居づらいから、早く退散しよう。
朝練のお兄ちゃんが戻って来ないうちに・・・って、お弁当!
増えてきた3年生の生徒越しに振り返ってみたら、廊下でおろおろしている吉野先輩が見えた。お兄ちゃんを廊下でつかまえるつもりかな。
それにしても、お兄ちゃんのことになると、本当に恥ずかしがり屋さんだね、吉野先輩は。
奈々と2人で、吉野先輩と早瀬の関係をあれこれ推測しながら教室に戻ると、早瀬は何事もなかったように友達とふざけ合っていた。ああやってると普通なのに。
でも。
早瀬がどうしてあたしを睨むのかわかってすっきりした。
お兄ちゃんが吉野先輩を取っちゃったからだ。
だからって、あたしまで目の敵にするのは納得できないけどね。
放課後、天文部に行くと、今日は長谷川先輩もお休みだった。
早瀬のことを訊いてみようと思っていたのに。
「よかったら入部してくれると嬉しいな。」
と言いながら、笹本先輩が入部届の用紙を渡してくれた。
奈々がその場で書き込み始める。
「提出は担任だからね。」
奈々を見ながら笑う笹本先輩は、やっぱりやさしい感じ。
吉野先輩のことではお兄ちゃんに負けたみたいになっちゃったけど、どこを見ても、お兄ちゃんよりも上だと思う。
気の毒だな・・・。
部室には、1年生はあたしたちのほかにも男子が5人来ていて、それぞれ先輩に教わりながら活動に参加する。
実を言えば、天文部の活動って全然興味がなかったんだけど、やってみると意外に楽しい。
・・・まあそれは、先輩たちが楽しくていい人だっていうことが大きいのかも。
今日はサボり気味の牧村先輩が来ていたので、帰りは笹本先輩と牧村先輩にあたしたち2人、合計4人が一緒。
牧村先輩は小柄でちょっとお調子者の、おしゃべりな先輩だった。おもしろいことをたくさん言って、奈々とあたしを笑わせる。
4人の中では牧村先輩が最初にサヨナラだ。
次が笹本先輩と奈々・・・なんだけど、今日は笹本先輩が駅の本屋に行くと言って、奈々だけバイバイ。
「気をつけて帰れよ。」
と先輩が奈々に言うと、最初は残念そうにしていた奈々がすごく嬉しそうな顔をして帰って行った。
たったひとことで笑顔になれるなんて、恋には魔力がある。
「茜ちゃん、覚えてるかなあ?」
笹本先輩が笑いながら問いかける。
「中学のころ、同じ塾に通ってたときに、授業が始まる前に、外で茜ちゃんと藤野がケンカしてさあ。」
「え? そんなことありましたっけ?」
「うん。ちょっとの言い合いはよくしてたけど、その日は藤野が言ったことで、茜ちゃんが泣いちゃったんだよ。」
「うわー、恥ずかしい! なんでそんなこと覚えてるんですか?!」
あたしは中1だったはず。
中学生にもなって、人前で泣くなんて!
「俺は一人っ子で兄弟がいないから、言い合いをしてる藤野と茜ちゃんのことが普段から気になっていたんだよね。ほら、兄弟げんかって、友達とのけんかとは違うだろう? ある程度は許し合えるっていうか。」
「まあ、そうかもしれませんね・・・。」
「でも、その日は藤野がいつもよりキツイことを言ったみたいで、茜ちゃんが泣き出しちゃって、でも、藤野は怒ったまま知らんぷりして教室に入っちゃってさ。」
冷たいお兄ちゃんだ。
「放っておくわけにもいかなくて、おそるおそる声をかけてみたら、しがみついて泣かれちゃって。」
「えええええぇ?!!」
そんな!
恥ずかしい!!
「わっ、忘れてください! そんなこと!」
「いやあ、女の子にしがみつかれたのは初めてだったから、忘れられない経験だったよ。ははははは。」
やだ〜〜〜〜!
どうしよう!
お兄ちゃんが悪いんだよ!
ひたすら恥ずかしくてろくに口が利けなくなったあたしは、自分の家への分かれ道に着いたときは心底ほっとした。
「車に気をつけてね。」
にこやかに手を振る先輩にやっとの思いであいさつをして信号を渡る。
笹本先輩にそんなところでお世話になっていたなんて・・・恥ずかしい!