第一部 ふたりでひとり
第1章 同じ産声
桜の花弁が、産婦人科の窓に張り付いていた。
四月七日、午後二時三十六分。市民病院の三階、隣り合った二つの分娩室から、ほぼ同時に、二つの産声が上がった。
「男の子ですよ、お父さん!」
「女の子です、元気な子ですよ!」
助産師の声が、廊下を挟んで重なる。
廊下の長椅子に座っていた水瀬 拓海は、その瞬間、握りしめていたハンカチを床に落とした。
「……男の子」
「ええ、男の子です。立派な——」
「すみません、もう一回言ってください」
「男の子ですよ」
「……男の子か」
拓海は、ハンカチを拾うのも忘れて、もう一度同じ言葉を呟いた。
隣の分娩室の前では、藤川 健司が、両手で顔を覆っていた。指の隙間から、声が漏れている。
「ありがとう……ありがとう、美和……」
二人の父親は、廊下の真ん中で、お互いの存在に気づいた。目が合った瞬間、どちらからともなく、ぎこちなく頭を下げた。
「……お、おめでとう、ございます」
「あ、いえ、こちらこそ。あの——同じ時間に?」
「みたいですね。びっくりしました」
「いやあ、こんなことあるんですね……」
二人は、立ったまま、しばらく無言で笑った。何が可笑しいのかも分からないまま、ただ笑った。
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新生児室のガラスの向こうで、二つの揺りかごが並んでいた。
ネームプレートには、「水瀬 悠斗」と「藤川 結愛」。生まれた時刻の欄には、判で押したように同じ数字が並んでいた。
「悠斗、って書くんですよ。悠々とした、悠斗。家内が漢字辞典を片手に三日三晩悩みましてね」
拓海は照れたように頭を掻いた。三十代半ば、化学メーカーの研究職だという彼は、白衣ではなく少しくたびれたスーツを着ていた。
「いい名前じゃないですか。うちは結愛——結ぶ愛と書きます。妻が、人と人を結ぶ子になってほしいって」
「ああ、いい名前ですね……結愛ちゃん、か」
「水瀬さん、お子さんは初めて?」
「ええ、初めてです。三十六で、ようやく。藤川さんは?」
「うちも初めてです。三十四になります。家内は二十九ですが」
「うちと一歳違いですね。なんだか、ご縁ですねえ」
健司は、ガラスにそっと手を当てた。
「不思議だなあ。さっきまでお腹の中にいたのに、もう外で泣いてる」
「分かります。実感がまだ……来てないんですよ、僕」
「来ないですよね。来るんでしょうか、これ」
「どうなんでしょう」
二人はまた、声を合わせて笑った。
そこへ、車椅子に乗せられた二人の母親が、ほぼ同時に運ばれてきた。
健司の妻・美和と、拓海の妻・千夏。二人は最初、隣の車椅子の存在に気づかなかった。それぞれ、ガラスの向こうの自分の子供しか見ていなかった。
先に気づいたのは、千夏だった。
「あの……もしかして、隣の部屋の方ですか」
「あ、はい。さっき……」
「同じ時間でしたよね?」
「はい、二時三十六分」
「うちもです」
二人は顔を見合わせた。ふたりとも、まだ汗ばんだ前髪が額に張り付いていた。
「……すごい偶然ですね」
「本当に。なんだか、今日のこと、一生忘れない気がします」
千夏は、車椅子の肘掛けを掴んで、少し前のめりになった。
「あの——図々しいお願いなんですけど、よかったら、お電話番号、交換させていただけませんか。同じ日に、同じ時間に生まれた子同士なんて、もう二度とないご縁だと思って……」
美和は、一瞬目を見開き、それから、ふっと表情を緩めた。
「私も、ちょうど同じことを、言おうと思っていました」
「えっ、本当に?」
「本当です。でも、初対面でいきなり失礼かなって」
「私もです、私も!」
二人は、車椅子の上で、ほとんど同時に小さく笑った。
廊下の端では、拓海と健司が、その様子を見ながら、また顔を見合わせていた。
「水瀬さん」
「藤川さん」
「これは——もう、決まりですね」
「決まりですね」
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退院後、二つの家族は、本当に連絡を取り合うようになった。
水瀬家と藤川家は、車で十五分ほどの距離にあった。最初の食事会は、生後一か月の頃。場所は、藤川家からほど近い古い喫茶店だった。
「悠斗くん、髪、ちょっと多くないですか?」
「そうなんですよ、生まれた時から黒々してて。父親に似たのかなあ」
「いや、お父さん、薄いじゃないですか」
「健司さん!」
美和が小声で夫を叩く真似をして、千夏が吹き出した。拓海は照れて、自分のおでこを撫でた。
「あの、藤川さん、よく言われるんですけど、僕、まだ薄いってほどでは……」
「いやいや、十分薄いですよ。気にしないでください、男は皆通る道です」
「健司さん、本当に黙って」
ベビーカーの中で、悠斗が小さくくしゃみをした。隣の結愛が、同じタイミングで、目を覚ました。
「あ」
「あ」
母親二人が、同時に声を上げた。
「今、悠斗くんがくしゃみしたら——」
「結愛が起きた」
「……これ、もう、運命じゃないですか?」
健司が、コーヒーをすすりながら、しみじみと言った。
「だから言ったじゃないですか、決まりだって」
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二人がハイハイを覚える頃には、両家は週末ごとに会うようになっていた。場所は交互に、水瀬家と藤川家。
水瀬家のリビングは、拓海の趣味で、壁一面が本棚になっていた。物理、化学、哲学、SF——ジャンルを問わず詰め込まれた本の前で、千夏は子供たちを遊ばせた。
「拓海さん、この本、子供が引っ張ったらどうするの」
「ああ、それ、捨てていいやつ」
「全部?」
「全部」
「絶対嘘」
藤川家のリビングは、対照的に物が少なかった。健司が言うには「ミニマリストってやつに憧れてる」のだそうだが、美和に言わせれば「ただの面倒くさがり」だった。
「健司さん、せめてこの段ボール、片付けません?」
「いつかやる」
「いつかって、いつ」
「人生のうちのいつか」
四人の親たちは、それぞれの家で、それぞれの不満を共有し合うのが、いつしか楽しみになっていた。
そして、その真ん中で、悠斗と結愛は、いつも一緒に転がっていた。
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不思議なことに、二人は同じタイミングで眠り、同じタイミングで目を覚ました。
「ねえ千夏さん、これ見て」
「どうしたの?」
「悠斗くん、いま、あくびした」
「えっ」
「結愛も、いま、あくびした」
千夏はビデオを取り出した。
「もう一回やって」
「やってって言われてもね……」
そして本当に、十分後、二人はまた同時にあくびをした。
「録れた、録れた!」
「拓海さんに見せなきゃ」
悠斗が結愛のラトルを振ると、結愛は手を叩いて笑った。結愛が悠斗のぬいぐるみを抱きしめると、悠斗はにっこり頷いた。取り合いになりそうなものを、二人はなぜか、絶妙に譲り合った。
「うちの子たち、もう通じ合ってるみたいねえ」
千夏が冗談めかして言うと、美和は写真を撮りながら答えた。
「本当ね。双子みたい」
「双子っていうか——」
千夏は少し首を傾げた。
「なんだろう、もっと、こう……ぴったり、っていう感じ」
その言葉を、美和は後に、何度も思い出すことになる。
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一歳の誕生日は、二つの家族が合同で祝った。
水瀬家のリビングに、二つのケーキが並べられた。青い蝋燭と桃色の蝋燭。
「せーの」
父親たちの掛け声で、二本のろうそくが同時に消えた。正確には、二人とも吹き消せる年齢ではなかったので、母親たちが代わりに吹いた。それでも、悠斗と結愛は、何が起こったのかを察したように、同時に手を叩いた。
「拓海さん、写真!」
「撮ってる撮ってる」
「もうちょっと寄って」
「これ以上寄ったらケーキに突っ込む」
「健司さん、ビデオお願いね」
「任せて」
その日、健司は、千夏と拓海が帰った後、リビングのソファに座って、缶ビールを開けた。
「美和」
「なに」
「あの子たちは、きっと一生、友達でいるんだろうな」
美和は、生クリームで頬を汚した結愛の顔を、ガーゼで拭いていた手を止めて、夫を見た。
「友達以上かもしれませんよ」
「……というと?」
「分からないけど、なんとなく」
「美和の『なんとなく』は当たるからな」
「分かってるなら、覚悟しておいてくださいね、お父さん」
「……まだ、お父さんって呼ばれるの、慣れないな」
「私も、お母さんって呼ばれるの、ぞわぞわします」
二人は、眠ってしまった結愛の寝顔を見ながら、声をひそめて笑った。
その夜は、確かに、二つの家族にとって最も幸せな夜のひとつだった。
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しかし、その「一生」の意味を、藤川家が思い知るのは、それから数か月後のことだった。
生後半年の定期検診。
「結愛ちゃんのお母さん、少しお話を……」
診察室から呼び戻された美和の顔から、血の気が引いていた。
医師の説明は、丁寧で、慎重で、しかし、確実だった。
「……念のため、もう少し詳しい検査を受けていただきたいんです」
「あの、念のため、というのは……」
「お母さん、落ち着いて聞いてくださいね」
美和の手の中で、結愛は、何も知らずに、医師の指を握ろうとしていた。
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健司の携帯が鳴ったのは、その日の夕方——彼が会社のデスクで、娘の写真を見て微笑んでいた、まさにその瞬間だった。
「もしもし、美和?」
「……健司さん」
「どうした、声が」
「病院から、もう一度来てほしいって」
「うん」
「すぐ来てって」
「……今、行く」
「健司さん」
「ん?」
「……ごめんなさい」
「なんで美和が謝るんだ。今行くから、待ってて」
電話を切って、健司はデスクの前で、しばらく動けなかった。
机の上には、生まれたばかりの結愛を抱く美和の写真が、立てかけてあった。
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その日、市民病院の小児科。藤川夫婦は、初めて「不治」という二文字を、自分たちのこととして聞くことになる。
医師の声が、どこか遠くから聞こえていた。
窓の外には、初夏の青葉が、揺れていた。
「治療法は、現時点では……」
「……どれくらい、生きられるんですか」
「健司さん」
「すみません、でも、聞かないと」
「ご両親、まずは落ち着いて、これからのことを——」
医師は、二人の手元に置かれた、結愛のおくるみを見た。
「ただ、研究は進んでいます。十年、二十年経てば、必ず、新しい治療法が見つかるはずです」
その「必ず」が、十分間に合うのか、間に合わないのか。
誰にも、まだ、分からなかった。
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その夜、藤川家のリビング。
ソファに並んで座った夫婦は、長いあいだ、何も話さなかった。テーブルの上で、結愛のおもちゃが、誰にも触られないまま転がっていた。
「健司さん」
「ん」
「これから、どうしたらいいんだろう」
「どうもしないよ」
「……どういう意味?」
「結愛は、結愛だ。何も変わらない。何も変えない」
美和は、夫の横顔を見た。
「水瀬さんたちに、伝える?」
健司は、しばらく考えてから、首を振った。
「いや——まだ、言わないでおこう」
「どうして?」
「言ったら、たぶん、千夏さんは泣いてくれる。拓海さんも、自分のことみたいに悲しんでくれる」
「うん」
「それは、ありがたい。でも、そうなったら、悠斗くんと結愛の関係も、きっと、ちょっとずつ変わる」
「……変わる?」
「親が悲しんでる相手の子は、特別になる。可哀想な子になる。子供は鋭いから、すぐに気づく」
美和は、ゆっくりと頷いた。
「結愛には、普通に育ってほしい」
「うん」
「悠斗くんと、普通に、友達でいてほしい」
「……うん」
長い沈黙のあと、美和は囁いた。
「いつか、言う日が来るのかな」
「来るかもしれない。来ないかもしれない」
「……健司さん」
「ん?」
「私、強くなる」
「うん」
「結愛のために、強くなる」
「俺もだ」
健司は、妻の肩に、そっと手を置いた。
眠っている結愛の頬は、まだ、ふっくらと柔らかかった。窓の外では、初夏の風が、新緑の葉を揺らしていた。
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同じ日に生まれた二人の人生は、この夜、静かに、けれど確かに——別の道を、歩み始めていた。
その事実を知っているのは、まだ、たった二人の大人だけだった。
水瀬家では、その夜、拓海が悠斗をお風呂に入れていた。
「悠斗ー、結愛ちゃんと、今度どこ行きたい?」
湯船の中で、悠斗は、まだ言葉にならない声で、何かを答えた。
「動物園? いいなー、今度パパが連れてってあげるからな」
千夏が、洗面所から顔を出した。
「拓海さん、藤川さんに連絡しといた?」
「あ、忘れてた。明日でいいよね」
「もう、本当に……」
二つの家のあいだに流れる時間は、まだ、同じだった。
ただ、片方の家のリビングだけが、誰にも気づかれないまま、ほんの少しだけ、暗かった。
第2章へつづく




