無名
「コンプレックスを取り除いた『私』が『本当の自分』である」
そんな風に誰かは言った。私はその言を聞いて虚しくなるばかりだった。その理論が正しいならば、「本当の自分」とは「無」でしかない。私の核は劣等感なのだ。その現状を肯定しているわけではないが、あらゆる行動原理や思考回路にそれが潜んでしまっている。認めたくないものでも、凡例を突きつけられれば認めざるを得ない。
この構造を脱却することが人生の目標である。そんな風に一時期は考えていたが、今は違う。この構造こそが私の本質らしい。一見、開き直りのようにも聞こえるが――もちろんその側面もあるだろうが――どうやら大部分が真実のように思える。
そもそも「この構造を脱却することが人生の目標だ」という認識自体が、現状への劣等感からスタートしているのだ。仮に一つずつコンプレックスを潰していって、「完璧な」人間になれたとして、果たして私は劣等感を抱えずに済むだろうか? そんな想像をしたとき、胸を張って腕組みをしている自分がどうしても浮かばない。何をもって「完璧」とするかは、結局のところ自分の裁量に依ってしまう。小うるさい姑のように、些細な欠点や不完全さをあら探しして、またウジウジと自傷に浸る気がしている。
もちろん、私が最底辺だなんて驕るつもりはない。現状、自分よりも客観的に「劣っている」と見なされる人間は山ほどいるだろう。私に逮捕歴はないのだから。また、過去の自分に比べて幾分か世間の常識は身についたつもりだし、同じ所で停滞しているとは思えない。
問題は足を踏み出そうとしない点にある。「ニワトリが先か、卵が先か」と似た話をしよう。先にどちらを語るかはどうでも良いのだが、私の思考の出発点は「こんな自分にできるだろうか」なのだ。その検問所はひどく厳しいものであり、多くの場合は "NO" を出されて終わる。そうして行動に踏み切らない自分と、「怠惰」という現状が残される。その怠惰が「こんな自分」を生み出し、また検問所の制約が強固になってゆく。
この悪循環は私特有の欠点だと思っていたのだが、ここ最近、少なくない人々が共通して持つ性質なのではと疑い始めた。発明の契機はいつも、世界にある欠陥を見つけることだろう。「あら探し」は人の生態なのかもしれない。ならば、自分へも目が向いてしまうならば、負のスパイラルだって生じかねない。
そして、この悪循環を「脱却すべき敵」と見なすこと自体が、構造を永続させるための罠なのではと気づいた。コンプレックスの存在目的は自分を愛することだと思っていた。その手段として、自分を許さないことを取っているのだと。しかし、手段こそが本質であったのではないか。
つまり、私は「いつか自分を許せるようになるため」にコンプレックスと戦っていたのではない。むしろ、自分を許さないという安全圏に留まり続けるために、絶え間なく新しい劣等感を発掘し、検問を強化し続けていたのかもしれない。
自分を許し、肯定してしまうことは、ある種の終わりを意味する。それは、もはや何かのせいにできず、丸裸の自分で世界と対峙しなければならないという恐怖だ。私が怠惰に沈んでいる間だけは、今エッセイを綴っているような時間に逃げ込むことができる。「コンプレックス」という物語的個性を得られるのである。
この悪循環は呪いであると同時に、一つのシェルターだった。
もしこの仮説が正しいのなら、私がすべきことはコンプレックスを潰すことではない。ましてや「本当の自分」などという空虚な光を探すことでもない。ただ、自分を罰することで得ている安堵感へ絶望するだけでいい。
解決しようと足掻くエネルギーさえ、結局は「こんな自分はダメだ」という劣等感の再生産に回されるだけなのだ。どうやら私は、ただこの構造を抱えたまま、重い足を引きずって、不完全なままの「無」として生きていくしかない。そして皮肉なことに、その諦めの境地こそが、初めて検問所の門番を居眠りさせる隙になるのではないだろうか。
以上の内容は「無知の知」とデジャヴを感じてしまう。自分が無知であることを知り、許容することは、別に開き直りではないだろう。そこが現在地であり、スタート地点であり、自分であると知ることなのだ。
劣等感はまず、自身が抱える感情に「劣等感」とラベル付けされることから始まる。その過程は本当に必要なのか。検問所の門番に武器を与えているようなものではないか。例えば、私が人前でうまく喋れないという事象があるとする。それをコミュニケーション能力の欠如による「劣等感」と名付けた瞬間に、克服すべき巨大な壁が目の前に現れる。しかし、名付けを放棄してしまえば、そこにあるのは「言葉が喉に引っかかった」という、風が吹くのと同じくらい無機質な現象に過ぎない。
名付けは理解を助けるようでいて、同時に思考を固定化し、自己処罰の根拠を強固にする。人間ならば自己認識は抱えざるを得ないだろうし、認識には「名」が伴う。しかし、そのラベルが「劣っている自分」という物語を補強する道具になっているのだとしたら、そんな名はむしろ毒でしかない。
「無知の知」の先にあるのは「無名の知」かもしれない。「自分はこういう欠陥があるから、こう思うのだ」という因果関係の鎖を断ち切ってみる。理由を探すのをやめ、ラベルを剥がし、そこに横たわる「ままならない現状」を、名付けようのない塊として眺めてみる。そこには虚しさも、そして奇妙な静けさもあるはずだ。
私の核が劣等感なのだとしても、「劣等感」という名前がついていなければ、それは単なる一状態でしかない。
構造を脱却するのではなく、構造から名前を奪うこと。そうして裸になった私が本質である。決してコンプレックスを取り除いたわけではない。誰かが――自分かもしれないが――コンプレックスと呼びうる特徴を、名を付けないまま受け入れるのだ。




