エピローグ:鏡の中の自分
※のぞみ視点
深夜。自宅の部屋で、私は机の上に置かれた小田原のレジ袋を見つめていた。
中には、あのかまぼこ屋で見つけた、限定のキーホルダー。
『……お疲れ様でした、余裕院さん』
あいつにそう冷たく言い放った自分の言葉が、今は本当に恥ずかしい。
横浜の夜。なりふり構わず私を追いかけてきた、あいつの情けない顔。
シャツを濡らした私の涙と、仲直りの笑い声。
私は立ち上がり、父さんから頼まれたお裾分けの袋を掴んだ。
隣の迂闊の家へ行くと、玄関の鍵は開いていた。
不用心なのは相変わらずだけど、今はそのだらしなさが、なんだか愛おしく思える。
「……迂闊、いる?」
返事はない。ちょうど買い物から帰ってきたあいつのお母さんに「部屋、入っちゃっていいわよ」と促され、私は階段を上がり、彼の部屋の前へ立つ。
ドアの隙間から、細い光が漏れていた。
勝手に入るのは悪いかな、なんて思いながらドアノブに手をかけた時、私は動きを止めた。
室内から聞こえてきたのは、微かな、でも必死な吐息だった。
隙間から覗いた部屋は、私の知っている「いつものだらしない部屋」ではなかった。
床には、付箋だらけの分厚い時刻表。
机の上には、開いたままの英語の辞書と、書き殴られた大量のルーズリーフ。
ヘッドホンを首にかけた迂闊が、画面の中の動画を食い入るように見つめながら、自分の手を何度も、何度も動かしていた。
「……あ、……クソ。また遅れた……」
彼の声は、震えていた。
その頬を一筋の涙が伝い、机の上の英単語帳を濡らした。
(……え?)
あんなに必死な、あいつを初めて見た。
横浜駅で彼が言った、『今はまだ言えないことがある』という言葉が、不意に脳裏をよぎる。
(あいつ……闘ってる?)
私には見せない、私の知らない場所で。
ボロボロになった辞書や、書き込まれた未知のスケジュール。
それは、彼が今、私が想像もできないほど遠い「何か」を目指して、独りで必死に走っている証拠に見えた。
(……待ってよ。どこに行こうとしてるの、迂闊?)
心臓が、少しだけ冷たく脈打った。
仲直りして、やっと同じホームに立てたと思ったのに。
部屋の中に散乱する「戦いの跡」は、まるで彼がもう、この街の路線図にはない、遠い場所へ向かって走り出しているような……そんな、ざわついた胸騒ぎを連れてくる。
いつか、あいつは私の手の届かないところへ行ってしまうんじゃないか。
そんな、根拠のない、けれど確かな「予感」が、夜風に乗って私の髪を揺らした。
私は声をかけずに、ドアノブにお裾分けの袋を下げた。
静かに階段を下り、スマホを取り出す。
そして、連絡先の名前を書き換えた。
遅刻魔(馬鹿)──と。
(了)




