第63話:地獄の夜食ピクニック
※迂闊視点
東海道線のボックス席。ひよりが「んんんー!(訳:宴ですよ!)」とはしゃぎながら、器用に座席をくるりと回転させた。
「んん、んんん、んんん、んん、んんんんー!
(訳:さあさあ、小田原の味を堪能しましょう! のぞみさん、これ見てください、鯛めし! 黄金色ですよ!)」
「本当だね、ひよりちゃん。すごく美味しそう」
のぞみは、ひよりに向けてだけは、いつものひまわりが咲いたような笑顔を見せた。
だが、その視線が俺の横を通り過ぎる瞬間、ふっと温度が消える。
俺はそこに存在していないかのように、彼女の意識から綺麗に抹消されていた。
俺の隣では、北斗とるいが「おー、駅弁豪華だな」なんて呑気にレジ袋を広げている。
この車両の中で、俺だけが一人、酸素のない宇宙に放り出されたような気分だった。
「……のぞみ、醤油、使うか?」
俺は震える手で、弁当の隅に添えられていた小さなプラスチックの容器を差し出した。
仲直りのきっかけが欲しくて、喉の奥まで出かかった「さっきはごめん」という言葉を押し殺して……。
のぞみは箸を止め、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。
その瞳は、やはり俺を見ていない。俺の背後にある壁か何かを透過しているような、無機質な眼差し。
「……いえ、結構です。味が薄ければ、自分で足しますから」
のぞみはひよりの方へ向き直り、鈴を転がすような声で続けた。
「ねえ、ひよりちゃん。この鯛めし、少しお裾分けしようか? 私一人じゃ、多すぎるみたい」
「んん、んー?んー♪(訳:えっ、いいんですか!? やったー!)」
「あ、俺も一口——」
俺が横から箸を伸ばそうとしたが、のぞみの冷ややかな微笑みに射すくめられて、空中で手を止めた。
「余裕院さんはるいくんに、貰えばいいじゃないですか?」
車内の空気が、一瞬で凍りついた。
事情を知らないひよりが「ん、んー?(訳:えっ、余裕院……さん?)」と首を傾げる。
北斗が俺とのぞみの顔を交互に見て、何かを察したように気まずく目を逸らした。
「……いただきます」
のぞみはそう短く告げると、丁寧に鯛めしを口に運んだ。
俺も、自分の弁当を開く。
小田原名物の豪華なかまぼこや煮物が並んでいるはずなのに、網膜には何も映らない。
口に入れた鯛の身は、砂を噛んでいるように味気がなかった。
のぞみの楽しそうな笑い声が、ひよりとの会話が、鼓膜を鋭く突き刺す。
さっきまで、俺たちは一緒に笑っていたはずだった。
青春18切符を握りしめ、どこまでも続く線路を、定刻通りに進んでいると思っていた。
でも、今の俺は、脱線して横倒しになった車両の中から、遠ざかっていく彼女のテールランプを眺めているだけだ。
——ごめん。
心の中で何度繰り返しても、その言葉は重たい駅弁と一緒に、喉の奥でつかえて消えた。
「余裕院さん」という、のぞみが敷いた冷たいレールの上を、列車はただ横浜へ向かって加速していく。
窓の外を流れる夜の景色が、俺の情けない顔を鏡のように映し出していた。
次回予告
次回、第64話「夜の車窓、陸からの警告」
賑やかな笑い声の裏で、スマホが震える。
親友・陸から届いた、たった一行のメッセージ。
「お前、また逃げてんのか」
その言葉が、俺の隠していた『中学時代の記憶』を呼び覚ます──。




