第62話:余裕院さん
※迂闊視点
小田原駅の改札内は、観光客の喧騒で溢れかえっていた。
だが、俺の隣を歩くのぞみの周りだけは、まるで空気が凍りついているかのように静かだった。
「のぞみ、おい、……のぞみ」
何度呼びかけても、彼女は一度もこちらを見ない。返事すら、ない。
商店街でのあの失言──「お前らしくない」なんて、口を滑らせた自分を今すぐ殴り殺したかった。
ただ、恥ずかしかったんだ。恋人だなんて、面と向かって認めちまうのが、今の俺にはあまりに眩しすぎて、ついあんな言葉で逃げてしまった。
駅弁屋の前で、のぞみが足を止めた。
「……」
しかし、彼女は一言も発さず、ショーケースの中の『鯛めし』を二つ指差す。
店員が会計を告げても、俺が財布を出そうとする隙すら与えず、のぞみは自分の財布から素早く札を差し出した。
「のぞみ、せめて俺が──」
言いかけた俺を、彼女は初めて振り返って見た。
だが、その瞳に宿っていたのは、いつもの快活な光じゃない。
見たこともないほど、冷たく、澄み切った拒絶だった。
「……。しつこいです」
「え……」
「そんなに私に構って、疲れませんか?」
のぞみは、人形のような無機質な微笑みを浮かべた。
その口から出たのは、俺との間に万里の長城を築くような、丁寧すぎる言葉。
「私はお前らしくないんですよね?
そこ、邪魔になるので退いていただけますか、余裕院さん?」
「……っ!」
心臓が、冷たい手で直接握りつぶされたような気がした。
余裕院さん。
「くん」ですらない。あえて苗字で、あえて他人行儀に。
余裕をなくして逃げ出した俺を、彼女は一番残酷な形で、その名字を使って皮肉った。
のぞみは俺が退くのを待たず、肩が触れるか触れないかの距離で、俺の横をすり抜けていった。
そこに、いつも感じていた彼女の体温はなかった。
階段を上がっていくのぞみの背中を、俺はただ立ち尽くして見送るしかなかった。
手に持ったレジ袋が、ひどく重く感じる。
自分らしく、定刻通りに、真っ直ぐに。
のぞみの生き方をずっと尊敬していたはずなのに。
俺は自分の弱さのせいで、彼女が最も大切にしていた「自分の居場所」を壊してしまったんだ。
背後の電光掲示板が、19:00の出発時刻を淡々と刻んでいた。
次回予告
次回、第63話「地獄の夜食ピクニック」
「宴ですよ!」と座席を回すひより。
のぞみはひよりとだけ楽しそうに笑い、俺が醤油を渡そうとしても、視線すら合わせない。
「……あ、結構です、余裕院さん」
噛み締める駅弁は、何の味もしなかった──。




