第45話:匂いが感情を揺らす午後 ※澪視点
※ 第45話は“澪”視点になります。
──午後3時すぎ。
温泉旅館に到着したのは、大学の同期の“さつき”と“きらら”、そして“私”の三人。
私たちはチェックインを済ませ、部屋に荷物を置いたばかり。
畳の匂いが、空気の中にじんわりと溶けていた。
「うわ〜!畳の匂いって、なんか癒しを感じない?」
さつきが鼻をクンカクンカと鳴らしながら、声を上げた。
「ちょっと、さつき? やめてよ、その犬みたいな荒い鼻息!」
きららがすぐに乗ってくる。
「……畳は、乾燥した草の記憶だから……」
私は、窓際の光を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
すると、さつきが笑いながら振り返る。
「出たよ!澪の詩人モード!」
「草の記憶って、押し花の親戚?」
きららが畳を指でなぞりながら言った。
「うん。でも、押し花は“感情の保存”だから、畳とはちょっと違うかな……」
──それから私たちは浴衣に着替える。
浴衣って、着ると“和風の自分”になる気がする。
でも鏡を見ると、“和風の誰か”になってる。
私は、そういう感想を口に出すタイプじゃないけど……。
「ねえ澪ちゃん、帯って前で結んだらダメなの? 可愛くない?」
きららが鏡の前でくるくる回ってる。
彼女は“かわいい”のためなら常識や伝統を軽く超えてくる。
「前結びは……たぶん、花嫁さんのやつだよ……」
私が言うと、きららは「じゃあ私、今日だけ嫁♡」と笑った。
「きらら、それで売店行ったら“おめでとうございます”って言われるぞ」
さつきが座布団の上であぐらをかきながら、浴衣の裾を大胆にまくってる。
彼女は“動きやすさ”のためなら見た目を完全に捨てるのだ。
「てかさ、浴衣って走れないよね。膝上までまくったらいけるけど」
「それもう忍者じゃん」
「いや、陸上部は忍者みたいなもんだし」
「澪ちゃん、走れる?」
きららが聞いてくる。
「浴衣で走ると放送時間の帯が外れるって親戚の叔父が……」
私が言うと、さつきがすかさずツッコむ。
「帯ってそっちの帯かよ」
「そう言えば澪ちゃんの叔父さん……テレビ局に勤めてるって前に言ってたね」
──それから、きららがパンフレットを広げる。
「ねえ、まずどこ行く? 売店? プール? カラオケ? 露天風呂?」
「プールはさ、髪乾かすのめんどくない?」
さつきが言う。
彼女は髪を乾かす時間を“無駄な筋トレ”と呼んでる。
「でも、カラオケは絶対盛れる♡」
きららがスマホを構えて、すでに自撮りモード。
「浴衣で歌うと、声が“ウシガエル”って聞くよ……」
私が言うと、二人がまたうなずいた。
「それ、浴衣で歌うと声が“裏返る”……じゃなかったか?」
「澪ちゃんの声って“田んぼや湿地帯”で響いてそうだよね」
「そう、それな! 澪の声、音質が両生類っぽい」
「ちょっと、私そんな声してるかな……?」
「ウシガエルって言い出したの、澪・お前だよね?」
「あ、そうだね……」
「うんうん♪」
──そんなやりとりのあと、三人で笑いながら部屋を出た。
外にタバコを吸いに行った二人と別れ、私は一人自由行動。
30分後にまた合流する約束で。
途中、お手洗いに行った私は少しだけ遅れてロビーに向かう。
ロビーは静かだった。
チェックインしたばかりの人たちが、浴衣姿でソファに座っている。
私は、フロアーの隅のほうにある静かなソファーに腰を下ろす。
ノートを開く。
リナリアの押し花が、ページの中で静かに咲いている。
“この恋に気づいて”──その花言葉が、胸の奥で揺れた。
そして、部屋へと向かうエレベーター付近の自販機の前で立ち止まる。
そのとき──缶の落ちる音。
コーヒーを買う男性の背中を見て、私は直感した。
それが誰なのか、すぐに見当がついた。
そして……彼が顔を上げると、
それは確信に変わった。
次回予告
缶コーヒーを買っただけなのに、迂闊の恋のダイヤが乱れた!?
ロビーの隅で待ってたのは、浴衣姿の“幼馴染”澪!
再会のベルが鳴る──
次回、「缶の音と、止まった時間」
感情の時刻表、更新です!




