第43話:トンネルの手前、忘れるはずのない声
──高崎駅、トイレの個室。
冷たいタイルの壁に手をつきながら、迂闊は浅く息を吐いた。
胃の奥が、ぐるりと捻れるような感覚。
そして、吐いた。
何度かえずいたあと、ようやく落ち着いたが、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
鏡に映る自分の顔は、血の気が引いていて、目の下にうっすらと影が落ちていた。
「……なんだったんだ、あれ」
通過列車。
窓際の女性。
あの一瞬の既視感。
そして、世界が止まったような感覚。
心臓が跳ねた。
風が止んだ。
人の動きが、スローモーションになった。
──あれは、ただの気のせいだったのか?
それとも……。
「……いや、考えすぎだろ。俺、疲れてるだけだ」
そう言い聞かせながら、迂闊は蛇口で手を洗い、顔を拭いた。
冷たい水が、少しだけ現実に引き戻してくれる。
──ホームに戻ると、のぞみがすぐに駆け寄ってきた。
「ちょっと迂闊、大丈夫? 顔色……めっちゃ悪いけど!?」
「……ああ、ちょっと腹の調子がな。今日の朝、昨日買ったコンビニの焼き鳥食ったのが悪かったかも」
「えー、寒い時期に揚げ物とか脂っこいの食べると高確率でお腹壊すよね。っていうか、旅の朝にそれ食べる!?」
「……俺の判断ミスだな」
のぞみはじっと迂闊の顔を見ていたが、やがて「ま、無理しないで」と言って、みんなの方へ振り返った。
「駅弁、みんな買ったー? あとで車内で食べるからねー!」
──上越線・水上行きの普通列車がホームに滑り込んできた。
この列車は水上駅で乗り換え、越後湯沢駅まで向かうルートだ。
五人は乗り込み、ボックス席に分かれて座った。
のぞみは峠の釜めしを抱えてニコニコしていて、ひよりはポッキーを几帳面に並べている。
車内はほのかに駅弁の香りが漂い、四人は旅館の話で盛り上がっていた。
「露天風呂、夜に入ると星が見えるらしいですよ」
とるい。
「んんんー!」
ひよりはポッキー語で賛同する。
「貸切風呂もあるらしいですよ。
のぞみさん、絶対テンション上がりますよね」
北斗いが笑う。
のぞみは釜めしの蓋を開けながら、ニヤリと笑った。
「楽しみすぎる! でもさ……約一名、貸切風呂と聞いてはしゃぎすぎ注意報出てる人がいるんだよね。
ね、迂闊とか、迂闊とか……」
「……」
「ねえ、迂闊……?」
──その輪の中で、迂闊はただ、窓の外を見ていた。
景色が流れていく。
山が近づき、川が見え、トンネルが迫る。
──でも、頭の片隅では、あの女性の横顔がリピートされていた。
伏し目がち。
長めの髪。
静かな横顔。
──あの時、彼女は何かを言っていた。
言葉は曖昧で、でも確かに、何かを伝えようとしていた。
迂闊は、それを受け止めきれなかった。
──そして今、車窓の向こうで景色が暗くなる瞬間──
彼女が、こちらを振り向く。
そして、その声が、迂闊の意識に直接語りかける。
『私、ずっと待ってたんだよ。
ねえ、なんであの時、ちゃんと言ってくれなかったの?』
──心臓が、ひとつ跳ねた。
それは、忘れるはずのない声。
疑念が、確信へと変わる。
息が詰まる。
胸の奥が、じんわりと痛む。
迂闊は、誰にも聞かれないように、そっと目を伏せた。
──列車は、トンネルへと滑り込んでいく。
闇の中で、誰かの記憶が、静かに目を覚ました。
──なぜだ?
──なぜ、こんなに胸がざわつく?
記憶の底に、何かが沈んでいる。
それが、ゆっくりと浮かび上がろうとしている。
でも、まだ言葉にならない。
心拍は落ち着いてきた。
でも、胸の奥は、まだじんわりと重い。
「……乗り物酔いってことにしとこう」
誰にも聞かれないように、迂闊は小さく呟いた。
──列車は、水上駅に到着する。
乗り換えを経て、越後湯沢へ向かう。
車内には、駅弁の香りと、旅の会話と、笑い声が満ちていた。
でも、迂闊の心だけは、どこか別の場所にいた。
──あの横顔の記憶が、静かに、確かに、彼の中で揺れていた。
次回予告
水着選びのはずが、なぜかスカートで潜入任務!?
ポッキーが鍵を握る、笑撃のショッピングモール回!
次回、「ズボンと罠と、笑いの渦」
迂闊の尊厳が試される、運命の一日が始まる──!




