第38話:風のあとに咲く(後編)
──夏の終わり。
空は高く、風は少し冷たかった。
澪の家の前に、引越し業者のトラックが停まっていた。
段ボールが積まれ、玄関が少しだけ寂しそうに見えた。
──迂闊は、何も知らなかった。
澪は引っ越すことを、迂闊に言えなかった。
最後の日、澪は一冊のノートを渡して「これは、引っ越した後に開いてね」とだけ言った。
──でも、迂闊は妙な胸騒ぎがして、その日の朝にノートを開いた。
そこには、押し花と一緒にこう書かれていた。
「風のあとに咲く。
また、どこかで咲こうね。
澪より」
──その言葉を読んだ瞬間、迂闊は立ち上がっていた。
靴を履き、玄関を飛び出し、自転車にまたがった。
「まだ間に合うかもしれない──!」
──ペダルを踏み込む。
タイヤがアスファルトを擦る音が、鼓動と重なって響いた。
朝の街はまだ静かで、通学の子どもたちがちらほら歩いている。
その中を、迂闊は風のように駆け抜けた。
──駅までの道は、緩やかな坂を含んでいた。
普段なら10分。
でも今は、そんな余裕はない。
「澪ちゃん……まだ、ホームにいるかもしれない。
まだ、電車が来てないかもしれない。
お願い、間に合って……!」
──心臓が早鐘のように鳴る。
汗が額を伝い、背中に張りつく。
ハンドルを握る手が、じっとりと湿っていた。
──信号が赤に変わる。
迂闊は止まるか迷った。
でも、横断歩道には誰もいない。
左右を確認して、ペダルを踏み込んだ。
「ごめん、ちょっとだけ……!」
──風が強くなってきた。
髪が乱れ、視界が揺れる。
でも、止まらない。
──澪の顔が、脳裏に浮かぶ。
押し花を挟んでいたときの横顔。
タコウインナーを見せて笑ったときの表情。
「また、どこかで咲こうね」と書いた文字。
──そのすべてが、遠ざかってしまう気がして、怖かった。
「僕……ちゃんと、言ってない。
ありがとうも、またねも、言ってない。
このまま終わるなんて、絶対イヤだ……!」
──駅が見えてきた。
時計を見る。
電車の発車時刻まで、あと数分。
──駐輪場に止める時間も惜しい。
自転車をそのまま駅前のフェンスに立てかけて、走った。
階段を駆け上がる。
足が重い。
でも、止まらない。
──改札を抜ける。
ICカードの音が、耳に届いた気がしない。
ホームへ続く階段を、二段飛ばしで駆け上がる。
*
──その頃、澪は電車の窓際に座っていた。
母と弟は向かいの席にいた。
弟はゲーム機に夢中で、母はスマホを見ていた。
誰も、澪の顔を見ていなかった。
──窓の外に、見慣れた街が流れていく。
公園、文房具屋、坂道の角のコンビニ。
どれも、迂闊と一緒に歩いた場所だった。
──澪は、胸の奥がじんわりと痛むのを感じていた。
「……言わなくて、よかったのかな」
──昨日、迂闊に渡したノート。
「引っ越した後に開いてね」とだけ言って、笑った。
その笑顔は、少しだけ震えていた。
──本当は、言いたかった。
「引っ越すの」って。
「さよなら」って。
「ありがとう」って。
──でも、言ったら泣いてしまいそうだった。
泣いたら、迂闊の前で弱い自分が出てしまいそうで。
それが怖かった。
──澪は、母の顔をちらりと見た。
今日は機嫌がいい。
でも、昨日は違った。
弟の忘れ物に澪に怒鳴り、澪の部屋を蹴った。
──その夜、澪はノートを書いた。
押し花を貼って、「風のあとに咲く」と書いた。
それは、澪自身への願いでもあった。
──でも──
「迂闊くん、今……何してるかな」
澪は、窓の外を見ながら呟いた。
──遠足の代わりに作ったお弁当。
タコウインナー、焦げた卵焼き。
「うまい!」って笑ってくれた顔。
あの笑顔が、今も胸に残っている。
──澪は、弟に借りていたキッズスマホを取り出した。
ふたりで撮った写真。
風に吹かれながら笑っている、あの日の一枚。
──画面を見つめながら、澪は思った。
「やっぱり……ちゃんと、言えばよかった」
──その瞬間、電車が次の駅に差し掛かった。
ホームに立つ人々の中に、見覚えのある自転車が見えた気がした。
──澪は、目を凝らした。
そして──見つけた。
迂闊がいた。
ホームの端で、息を切らしながら、手を振っていた。
──澪の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
涙が、こぼれそうになった。
──澪は、全力で手を振った。
窓越しに、声を張り上げた。
「また会おうねー!」
「絶対だよー!」
──その言葉は、風に乗って、迂闊の胸に届いた。
そして、澪の心にも、少しだけ光が差した。
──電車が遠ざかる。
でも、澪の中には、確かに残った。
迂闊の声、笑顔、そして──「またね」の約束。
「風のあとに咲く」──その言葉が、澪の胸の奥で静かに響いていた。
*
──車内。
のぞみが「スルメ、封印って言ったじゃん!」と小声でツッコむ。
ひよりは無言でスルメを袋に戻す。
北斗はしおりを読み、るいは静かにスマホを見ている。
迂闊は誰にも言わず、そっと目を閉じた。
あの春の風と、澪の声が、遠くで揺れていた。
「風のあとに咲く」──その言葉が、胸の奥で静かに響いていた。
次回予告
再び、鉄道旅行の続き。
迂闊の荷物地獄!のぞみの車両愛!そしてるいの爆弾発言が迂闊の心に急停車!?
次回「罰ゲームと鉄オタと……るいの一言」──
青春列車、感情フル加速で発車オーライ!




