第36話:風のあとに咲く(前編)
──市営地下鉄ブルーライン・あざみ野行。
白と青の車体が、静かにトンネルを滑っていく。
車内はまだ朝の空気を残していて、座席のクッションも少し冷たい。
迂闊は窓際の席に座り、頬杖をついて外を眺めていた。
トンネルの壁が流れていく。
時折、照明の切れ目から差し込む光が、車内の空気を揺らす。
──隣では、のぞみがスマホをいじっている。
「スルメ、封印って言ったじゃん!」と小声でツッコむと、ひよりが無言でスルメを袋に戻す。
北斗はしおりを読み、るいは静かにスマホを見ていた。
誰もがそれぞれの“旅の始まり”に集中しているようで、誰もが少しだけ浮かれていた。
でも……ただ一人、迂闊の胸の奥には、別の風が吹いていた。
──るいの家で見つけた一冊のノート。
淡い紫の花が、丁寧に押し花になって貼られていた。
ページの隅には、小さな文字で「風のあとに咲く」と書かれていた。
その言葉が、迂闊の記憶を静かに揺らした。
「……そういえば、あの子もそんな趣味があったな」
*
──小学三年生の春。
澪は、迂闊の住む地域に引っ越してきた。
二つ年上の小学五年生。
肩までの黒髪、静かな目元。
そして、いつも何かを我慢しているような笑顔。
最初に話しかけたのは、迂闊だった。
「それ、何の花?」
すると──澪は少し驚いた顔をして、でもすぐに笑った。
「ムラサキハナナ。春の風が好きな花だよ」
──それから、二人はよく一緒に遊ぶようになった。
澪は花の名前をたくさん知っていて、迂闊はそれを聞くのが好きだった。
公園の隅で見つけた花を、澪がノートに挟んで押し花にする。
迂闊はその横で、花の絵を描いた。
*
──冬。クリスマスが近づいた頃。
迂闊は澪を自宅に招いた。
母が作ったケーキと、チキンと、紙皿に盛られたポテト。
リビングには小さなツリーが飾られていた。
「これ、僕からのプレゼント」
迂闊は、澪にスケッチブックを渡した。
表紙には、澪が好きなムラサキハナナの絵が描かれていた。
「……ありがとう。私、学校や地域の行事以外でプレゼントをもらったの初めてだから。
すごく、嬉しい」
そして、澪も、そっと小さな包みを差し出した。
中には、手作りの押し花しおりが入っていた。
「これ、迂闊くんの絵に挟んで使ってね」
「うん、絶対使う!」
──その夜、澪は何度も笑った。
迂闊の母も「またいつでも来てね」と言ってくれた。
澪は「はい」と答えたけれど──その声は、少しだけ震えていた。
*
──翌日。
澪の家の前を通ったとき、迂闊は怒鳴り声を聞いた。
「なんであんたは、いつもそうなの!
この子の方がずっと素直で可愛いのに!」
──窓の隙間から、澪が腕を抱えて座っているのが見えた。
その腕には、赤く細い痕があった。
昨日の笑顔が、嘘みたいだった。
──迂闊は、澪に言った。
「僕が、キミのお母さんに話すよ! こんなの、ぜったいおかしいよ!」
しかし、澪は顔を強張らせて叫んだ。
「やめて! 言わないで! 私のお母さんは……私のこと、ちゃんと好きなの!
お母さん……お父さんが家に帰って来なくなってきてから
いつも仕事や私達姉弟のこで毎日忙しいし……。
怒るのは病気のせいで……でも、私のこと、ほんとは大事にしてるの!」
──その声は、泣いているようで、泣いていなかった。
澪は唇を噛んで、目をそらす。
「でも、このままじゃ……澪ちゃん、もっと痛い思いしちゃうよ」
迂闊は、涙をこらえながら言った。
──沈黙が流れた。
風が、庭のムラサキハナナを揺らした。
澪は、そっとその花を摘んで、迂闊の手に乗せた。
「この花、押し花にして。
枯れないように、ちゃんと残して。
私も……ちゃんと残るように、がんばるから」
次回予告
次回、「風のあとに咲く(中編)」
迂闊回想回(中編)
遠足に行けなかった春の分まで、今日はふたりで思い出を作る日。
甘い卵焼きとタコウインナーに、笑顔がこぼれる。
「風のあとに咲く花みたい」──澪の言葉が、迂闊の胸をそっと揺らす。
押し花と写真に残したのは、誰にも知られないふたりだけの初夏。




