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第36話:風のあとに咲く(前編)

──市営地下鉄ブルーライン・あざみ野行。

白と青の車体が、静かにトンネルを滑っていく。

車内はまだ朝の空気を残していて、座席のクッションも少し冷たい。


迂闊は窓際の席に座り、頬杖をついて外を眺めていた。


トンネルの壁が流れていく。

時折、照明の切れ目から差し込む光が、車内の空気を揺らす。


──隣では、のぞみがスマホをいじっている。

「スルメ、封印って言ったじゃん!」と小声でツッコむと、ひよりが無言でスルメを袋に戻す。


北斗はしおりを読み、るいは静かにスマホを見ていた。


誰もがそれぞれの“旅の始まり”に集中しているようで、誰もが少しだけ浮かれていた。


でも……ただ一人、迂闊の胸の奥には、別の風が吹いていた。


──るいの家で見つけた一冊のノート。

淡い紫の花が、丁寧に押し花になって貼られていた。

ページの隅には、小さな文字で「風のあとに咲く」と書かれていた。


その言葉が、迂闊の記憶を静かに揺らした。


「……そういえば、あの子もそんな趣味があったな」



──小学三年生の春。

澪は、迂闊の住む地域に引っ越してきた。

二つ年上の小学五年生。

肩までの黒髪、静かな目元。

そして、いつも何かを我慢しているような笑顔。


最初に話しかけたのは、迂闊だった。

「それ、何の花?」


すると──澪は少し驚いた顔をして、でもすぐに笑った。


「ムラサキハナナ。春の風が好きな花だよ」


──それから、二人はよく一緒に遊ぶようになった。

澪は花の名前をたくさん知っていて、迂闊はそれを聞くのが好きだった。

公園の隅で見つけた花を、澪がノートに挟んで押し花にする。

迂闊はその横で、花の絵を描いた。



──冬。クリスマスが近づいた頃。

迂闊は澪を自宅に招いた。

母が作ったケーキと、チキンと、紙皿に盛られたポテト。

リビングには小さなツリーが飾られていた。


「これ、僕からのプレゼント」

迂闊は、澪にスケッチブックを渡した。

表紙には、澪が好きなムラサキハナナの絵が描かれていた。


「……ありがとう。私、学校や地域の行事以外でプレゼントをもらったの初めてだから。

すごく、嬉しい」


そして、澪も、そっと小さな包みを差し出した。

中には、手作りの押し花しおりが入っていた。


「これ、迂闊くんの絵に挟んで使ってね」

「うん、絶対使う!」



──その夜、澪は何度も笑った。

迂闊の母も「またいつでも来てね」と言ってくれた。

澪は「はい」と答えたけれど──その声は、少しだけ震えていた。



──翌日。

澪の家の前を通ったとき、迂闊は怒鳴り声を聞いた。

「なんであんたは、いつもそうなの!

この子の方がずっと素直で可愛いのに!」


──窓の隙間から、澪が腕を抱えて座っているのが見えた。

その腕には、赤く細い痕があった。

昨日の笑顔が、嘘みたいだった。


──迂闊は、澪に言った。


「僕が、キミのお母さんに話すよ! こんなの、ぜったいおかしいよ!」


しかし、澪は顔を強張らせて叫んだ。


「やめて! 言わないで! 私のお母さんは……私のこと、ちゃんと好きなの!

お母さん……お父さんが家に帰って来なくなってきてから

いつも仕事や私達姉弟のこで毎日忙しいし……。

 怒るのは病気のせいで……でも、私のこと、ほんとは大事にしてるの!」


──その声は、泣いているようで、泣いていなかった。

澪は唇を噛んで、目をそらす。


「でも、このままじゃ……澪ちゃん、もっと痛い思いしちゃうよ」

迂闊は、涙をこらえながら言った。


──沈黙が流れた。

風が、庭のムラサキハナナを揺らした。


澪は、そっとその花を摘んで、迂闊の手に乗せた。


「この花、押し花にして。

 枯れないように、ちゃんと残して。

 私も……ちゃんと残るように、がんばるから」



次回予告

次回、「風のあとに咲く(中編)」

迂闊回想回(中編)

遠足に行けなかった春の分まで、今日はふたりで思い出を作る日。

甘い卵焼きとタコウインナーに、笑顔がこぼれる。

「風のあとに咲く花みたい」──澪の言葉が、迂闊の胸をそっと揺らす。

押し花と写真に残したのは、誰にも知られないふたりだけの初夏。


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