第35話:白い景色と、はじまりの音
──朝7時45分、新羽駅前。
空気はひんやりしているが、のぞみの表情はそれをかき消すようにポカポカしていた。
「……ねえ、迂闊。なんでひよりちゃん、朝からスルメ加えてんの?」
──ひよりは無言で立っていた。
口にはスルメ、手には小さなリュック。
表情はいつも通り無表情。
スルメの匂いが、駅前にじわじわ広がっている。
「なんで俺に?」
「いや、だって……ひよりちゃん無口キャラでしょ?」
「ひよりが無口だからって、なんで俺に聞くんだよ?」
「だって、言いやすかったから」
「無茶苦茶だろ、その理屈!」
──迂闊は寝癖のまま、スルメの匂いに顔をしかめる。
「てか、朝からスルメってどうなんだよ。車内で怒られるやつじゃん?」
「なんでポッキーじゃないのよ……ほんと惜しい……」
のぞみが悔しそうに言う。
「いやいやいや、惜しいって言うけどさ……、
論点、いろいろそこじゃねぇって!
てか、ポッキーとスルメって、もう食べ物のジャンル違うだろ。
俺はひよりの“代替基準”がほんとわからん……」
「あの……お取り込み中申し訳ないんですが、僕も話していいですか?」
──北斗が時刻表を手に、話に入ってくる。
「みなさん、そろそろ改札へ向かいましょうか!
ブルーラインは8時ちょうど発、あざみ野行です。
乗車時間は約20分。横浜駅で京浜東北線に乗り換え、大宮まで約1時間40分──」
「北斗、お前は相変わらずナビアプリより早口だな」
迂闊がぼそっと言う。
──るいは無言で全員を見渡し、静かに頷いた。
*
──改札を抜ける。
ICカードのピッという音が、朝の静けさを小さく切り裂いた。
ひよりがICカードを財布から探すが、見つからない……。
ひよりは眉をひそめ、“やれやれ、仕方ない”という顔をした。
しかしその直後──いったい何を思ったのか、何食わぬ顔で、口に咥えたスルメの先端を改札のセンサーに。
すると……
ピッ! 一瞬反応しかけて──
にぱぁ♪
ブー!
駅員が遠くからチラッと迂闊を睨む。
「だぁ──! にぱぁ♪じゃねぇよ!」
「ひよりな〜、スルメは非接触対応してないぞ!」
迂闊が慌てて止める。
*
──階段を下りてホームへ。
コンクリートの壁に反響する足音。
地下鉄特有の湿度が、肌にまとわりつく。
「あと3分で来ますね」
北斗が案内表示を見ながら言う。
──ホームには通勤客が数人。
スーツ姿の男性、スマホを見つめる女子高生、そして──スルメを加えたひより。
「……ひより、ホームでスルメはさすがに止めろ……」
迂闊が言うと、ひよりは無言で渋々スルメを袋に戻した。
「しゅん……」
眼をうるうるさせながら名残惜しそうにするその動作は、まるで“スルメとの別れ”を惜しむハムスターのようだった。
「スルメさん、きっとまた会えるよ」
のぞみが優しく言う。
「その言い方、動物のお友達とのお別れみたいだな」
迂闊がぼそっと返す。
──電車の接近音が遠くから響いてきた。
ホームの端にある案内表示が「まもなく電車が到着します」と点滅する。
「来ました」
北斗が短く言った。
──トンネルの奥から、ライトが近づいてくる。
車輪の音が少しずつ大きくなり、風がホームを撫でる。
──市営地下鉄ブルーライン・あざみ野行。
白と青の車体が滑るようにホームに入ってくる。
「じゃ、みんな。乗ろっか」
のぞみが言う。
「旅の始まりよ。スルメと共に──」
「やめろ、そのイカくさいキャッチコピー!」
迂闊が即座に止めた。
──ドアが開く。
五人は、それぞれの温度を持ったまま、電車に乗り込んだ。
次回予告
次回、「風のあとに咲く(前編)」
迂闊の回想回(前編)
地下鉄の窓に映るのは、懐かしい春の記憶。
ムラサキハナナが揺れるたび、胸の奥が少し痛む。
「また会えたね」──幼き約束が、今ふたたび息を吹き返す。
でも、彼女の笑顔には、まだ秘密が隠れていた──。




