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第17話:母と、感情の乗り継ぎ案内

山口の祖父母の家には、夏の終わりの匂いが漂っていた。

お盆が過ぎ、庭の蝉の声も少しだけ控えめになっている。


のぞみは、縁側に座って、祖母が淹れてくれた麦茶を飲んでいた。

氷がカランと鳴るたびに、時間が少しだけ進んだ気がした。


風が、障子の隙間からそっと入り込んでくる。

その風は、どこか懐かしくて、どこか遠い。

のぞみは、麦茶のグラスを両手で包みながら、庭の方を見つめていた。


(ママがもうすぐ帰ってくる)


そう思うだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。


母は退院して、父と一緒に車で戻ってくる予定だった。

のぞみは、何度もその情景を想像していた。

玄関が開いて、母が笑って、「ただいま」って言う。

その声を、何度も頭の中でリピートしていた。


そして——


玄関の引き戸が開いた。

先に入ってきたのは父。

そのすぐ後ろに、少し痩せたけれど、確かに母が立っていた。


「ただいま、のぞみ」


母の声は、風に混ざるように優しかった。

のぞみは、走って玄関へ向かい、母に抱きついた。


「ママ〜!」

母の体温は、少し冷たくて、でも安心する温度だった。


「ママ、帰ってきたんだね」


「うん、帰ってきたよ」


母の手が、のぞみの背中をそっと撫でる。

その手の動きが、のぞみの迷いをほどいてくれる。



その夜。

祖父母の家の居間には、久しぶりに家族全員が揃った。

ちゃぶ台の上には、祖母の手料理が並んでいる。


「ひかり、病み上がりなんじゃけぇ、あんたはすわっときっちゃ」


「おかーさん、大丈夫じゃけぇ。うちにも手伝わせてつかぁさい」


煮物、冷やしトマト、きゅうりの酢の物、そしてのぞみの好物の卵焼き。

父は缶ビールを開け、祖父は麦焼酎を氷で割っていた。


「こら。のぞみ!

卵焼きばっかり取るんじゃない。おかずのバランスを考えなさい」


父が笑いながら箸でのぞみの皿をつつく。


「えー、だってこれ、ばあちゃんの卵焼きだもん。東京のと違って甘くて好き!」


「ほう、東京の卵焼きにケンカ売るとはな……」


祖父が笑いながら言うと、母が小さく吹き出した。


「のぞみ、昔は卵焼きの端っこしか食べなかったのにね。成長したねえ」


「端っこは味が薄いんだもん……って、ママまで私をイジるの?」


「イジってないわよ。褒めてるの。味の濃いところに向かって生きてるってこと」


「なんか脂の濃いギトギトした人生みたいでそれやだな……」


のぞみがむくれると、祖母が優しく笑った。


「のぞみちゃんはな、生まれたばっかしのときから“濃いとこ”が好きじゃったんよ。

ひかりのお乳も、お布団も、ちゃぶ台も、家族の話し声もな」


「こら、あんた!」


「こだま、す、すまん」


「え、じいちゃんなにそれ、ちょっと恥ずかしい……」


「ほら、照れてる照れてる。のぞみ、今日も“濃いめ”で仕上がってるな」


お酒に出来上がった父が祖父の麦焼酎の瓶をのぞみに見せながらふざけて言うと、母が「それ、お酒の話?」とツッコむ。

祖父が「濃いお酒は長生きの秘訣じゃ」と言い出し、祖母が「それは迷信よ」と笑う。


笑いがひと段落したところで、祖父がぽつりと言った。


「明日、ひかりと(はやて)は墓参りに行っときんさい。お盆は過ぎたけど、気持ちの問題じゃけぇ」


「はい、行きます。のぞみも一緒に大丈夫ですか?」


「もちろん。草刈りはもう済ませとるけぇ、足元は心配いらん」


祖母が「お供えは冷蔵庫に入れとるけぇ、朝持っていきんさい」と続ける。

その声には、季節の区切りを大切にする人のやさしさが滲んでいた。


のぞみは、笑いながら麦茶を飲んだ。

その味は、少しだけ甘くて、少しだけ泣きそうになるくらい懐かしかった。


母は、まだ本調子ではなかったけれど、のぞみの話に何度も笑ってくれた。



翌日の夕方。

妻の実家のお墓参りを済ませた父は、仕事のために一人で先に関東の自宅へ戻ることになった。

のぞみは、母ともう少しだけ、山口に残ることになった。


その夜、布団に入ると、のぞみは母の寝息を聞きながら目を閉じた。

家族の声が、まだ耳の奥で響いていた。

その響きは、まるで列車の走行音みたいに、心の中をゆっくり進んでいた。



数日後。

母の体調も少しずつ落ち着いてきた頃。

のぞみが縁側で電車の絵を描いていると、母がそっと隣に座った。

手には、見覚えのあるノートが握られていた。


「のぞみ、これ……覚えてる?」


母が差し出したのは、幼い頃にふたりで作った“時刻表遊び”のノートだった。

のぞみの一日を、列車のダイヤみたいに書き込んでいく遊び。

ページには、色鉛筆で書かれた、やさしい言葉が並んでいた。


母がページを開く。

そこには、のぞみの“運行記録”が並んでいた。


「おはようのあいさつ:6:30発

おふとんたたみ:6:45着

おてて洗って朝ごはん:7:00発

ママとおはなしタイム:8:00着

おえかきタイム:9:30発

おひるね:12:00着

おともだちとあそぶ:15:00発

ただいま:17:00 着

おふろ:18:30着

おやすみなさい:20:00終点」


のぞみは、ページをめくるたびに、記憶がよみがえってくる。

母の声。麦茶の匂い。縁側の風。

そして、あの頃の自分が、毎日“運行”していたことを思い出す。


「ねえ、ママ。なんでこれ、持ってきたの?」


母は、病院からもらった手紙を静かに閉じると、少しだけ空を見上げて言った。


「のぞみが、また“乗り継ぎ”に迷ったときのために。

この時刻表があれば、ちゃんと戻ってこられるから」


のぞみは、ノートを胸に抱きしめた。

その紙の感触が、母の手のぬくもりみたいに、じんわりと広がっていく。

ページの隅には、小さく書かれた文字があった。


『のぞみ、あなたがこの先、もし行き先に迷って遅延したとしても大丈夫。

必ず次があるから。

私とあなた、ふたりの乗り継ぎ案内はいつも……のぞみ、あなたの心の中にあるからね』


「ママ、いつもそんなふうに言わないじゃん。どうしちゃったの?」


「ううん、なんでもない」

母は、そっと笑う。


「あれ? ママ……目、赤いよ。大丈夫?」


そんな母の笑顔は、少しだけ儚くて、でも確かにあたたかかった。



次回予告

次回、「遠回りの記憶」。

母と並んで見た景色、聞いた音、感じた揺れが、のぞみの心に静かに刻まれていく。

速さよりも深く残る“ゆっくりの意味”が、ふたりの旅を照らす——。

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