第10話:感情ダイヤは点検中
放課後の帰り道。
のぞみと迂闊は、並んで歩いていた。
夕暮れの街は、少しだけ涼しくて、アスファルトの匂いが残っている。
空には、雲の切れ間から差し込む光が、街の輪郭をやわらかくなぞっていた。
「……今日の“感情ダイヤ”、ちょっとだけ進行してるかも」
のぞみがぽつりと呟く。
「信号、黄から青に変わった?」
「いや、まだ点滅中。進行注意」
「じゃあ俺、徐行運転で並走するわ」
「うるさい。勝手に速度合わせないで」
それから、迂闊はふと空を見上げて、ほっと息をついた。
「……今日は北斗、用事で先に帰ったんだよな。
あいつがいると、のぞみの“感情ダイヤ”に割り込み運転してくるからな」
「なにそれ。嫉妬?」
「いや、運行管理の話。俺は保線係」
「うるさい。私のダイヤは私が組むの」
「でも、俺は線路の雑草くらいは抜いておきたい」
「それ、地味にありがたいかも」
ふたりが笑いながら歩を進めると、前方のコンビニから、ひとりの少女が出てきた。
大きめの白いパーカーに、ポッキーをくわえた中学生。
耳がほんのり赤く、でも表情は無。
その存在感は、静かに、しかし確実に二人の空気を変えた。
迂闊は、一瞬で固まった。
「……うわ。来た。
俺の“感情踏切”、警報音鳴りっぱなしのやつ」
のぞみは、すぐに気づいた。
「え、あの子……もしかして、あんたの妹さん?」
少女は、無言でこちらを見つめる。
そして、迂闊の顔をじっと見たあと、のぞみに視線を移す。
ポッキーの角度が、わずかに斜めになった。
迂闊は、そっとのぞみに耳打ちする。
「“だれが、『……うわっ、来た!』じゃい。
来て悪かったな兄貴。
兄貴、またろくで……女と並走してるでしょ?”
って言ってる」
「えっ!? あの娘そんなこと言ってないじゃん!」
「言ってないけど、ポッキーの角度がそう主張してる。
あと、耳が赤いのは照れ。頬が膨らんだら怒り。
今は……照れ怒りのハイブリッド。
直訳すると“兄貴、調子乗んな”」
「ちょっと! あんたのそれ、翻訳精度高すぎない?」
「俺、家では“ポッキー通訳士”って呼ばれてる。
資格はないけど、実務経験は豊富だ」
「何よ、その世の中で一番役に立たねえクソどうでもいい実務経験は」
ポキッ——!
少女は、ポッキーを噛み切る音だけで迂闊に抗議をする。
「ちょ、ひより、怖えーって!」
そして……迂闊の妹・ひよりはポッキーをタバコのようにくわえたまま、スナックのママが“常連の恋バナにノーコメントで全部察してる顔”みたいな渋さで、ゆっくりと息を吐いた。
登場人物プロフィール
余裕院ひより(14)
迂闊の義理の妹
無口でマイペースな中学生。普段は感情がかわかりずらいが怒ると頬を膨らませ、照れると耳が赤くなる。義兄・迂闊には素直になれず、無言の嫉妬や視線で圧をかける。大きめパーカーとタバコのように口にくわえたポッキーがトレードマーク。
兄・迂闊としては、妹がタバコに目覚めるんじゃないかと心配でたまらない。
*
迂闊の妹・ひより。
彼女がポッキーをタバコのようにくわえて現れてから、数日が過ぎた。
あの無表情で耳だけ赤い中学生が、コンビニの光の中から現れたあの日。
のぞみと迂闊、ふたりの“感情踏切”は、ずっと警報鳴りっぱなしだ。
──そして、ある日の放課後。
迂闊がのぞみと並んで歩いていると、スマホが震えた。
画面には、母からのメッセージ。
『ひよりの修学旅行の件で今日学校から連絡あってね。私心配なのよ。
宇勝も少し手伝って』
「……手伝ってって、俺に何ができるんだよ」
迂闊がぼやくと、のぞみは肩をすくめた。
「感情ダイヤ、特別運行だね。運行管理は私、保線係はあんた」
「雑草抜き担当かよ……」
ひよりの中学校では、来月に京都への修学旅行が予定されていた。
移動手段は新幹線。集合は新横浜駅。班行動も公共交通機関が前提。
学校からの案内には、こう書かれていた——
「乗り物に不安がある場合は、事前練習か医療機関の意見書を提出してください」
つまり、乗れなかったら参加できない。
感情ダイヤどころか、乗車券すら発行されない。
──そして、放課後。
のぞみ、迂闊、そして……迂闊の妹・ひより。
三人は駅のホームに立っていた。
ひよりは、白いパーカーのフードを深くかぶり、ポッキーをくわえたまま、改札の前で立ち止まる。
その姿は、まるで“乗るか乗らないか”の境界線に立つ小さな列車みたいだった。
「ひより、今日は無理に乗らなくていい。風だけ浴びて帰ろう」
迂闊はそう言うが、ひよりは小さく首を振った。
そして、ICカードをタッチ。
ピッという音が、静かに空気を切り替える。
──ホームに上がる。
鉄と風の匂いが混ざっていた。
通過列車のアナウンスが流れ、ひよりの肩がぴくりと跳ねる。
「見なくていいよ。私の袖、見てて」
のぞみはそっと言う。
列車が轟音とともに通過する。
ポッキーがきしむ音が、ひよりの緊張を代弁していた。
ひよりは、のぞみの靴紐を見つめながら、息を整える。
でも——
「ごめんなさい! やっぱり私……乗れない」
ぽつりと、ひよりが呟いた。
*
風が、少し冷たくなっていた。
夕暮れの公園。
ベンチの背もたれに触れると、金属が肌を刺すような感触があった。
のぞみとひよりは、並んで座っていた。
言葉はなく、ただ風と、遠くの電車の音だけが耳に届いていた。
ひよりは、白いパーカーのフードを深くかぶっていた。
ポッキーをくわえたまま、視線は地面の落ち葉に向いている。
その角度は、いつもより少しだけ……下を向いていた。
「……のぞみさんって、乗り物、怖くないんですか?」
ぽつりと、ひよりが呟いた。
声は小さくて、風に紛れそうだった。
のぞみは、ひよりが喋れたことにまず驚いたが、話の腰を折らないよう、少しだけ考えてから答えた。
「うん……怖くはないかな。
むしろ、乗ってると落ち着くかも。
景色が流れていくの、好き」
ひよりは、ポッキーをそっと外して、両手で持ち直す。
そして、少しだけ目を伏せた。
「……私、ずっと怖い。
バスも、電車も。
閉じ込められる感じがして……息が詰まる」
のぞみは、静かに頷いた。
その頷きは、言葉よりも優しかった。
「……いつから?」
ひよりは、しばらく黙っていた。
風が、彼女の髪を揺らす。
そして……ひよりはゆっくりと語り出した。
次回予告
次回、「感情ダイヤ、再発車」
ひよりの“乗り物恐怖症”の奥に眠る、あの日の記憶が動き出す。
感情ダイヤの過去区間、次回、運行開始。




