我儘
あの日、ルーがジャムを買いに出掛けなければ。
アレクシスは今も竜帝に相応しい婚約者と仲睦まじく過ごしていたのかもしれない。
『お前なんて生まれて来なければ良かったのに』
お母様の言葉が、同意するようなお父様の眼差しが正しかったことを思い知らされる。
誰に謝ればいいのか分からない。ルーにたくさんの物をあたえてくれたアレクシスに、どうやって償えばよいのだろう。
「お嬢様に何をした!」
怒りを伴った鋭い声に、ルーは現実へと引き戻された。顔を上げるとマヤが凄まじい形相でクレイに掴みかかっている。
「マヤ、止めて!クレイは何もしていないわ。少し、気分が悪くなって……ごめんなさい」
その言葉を聞くなり、マヤはルーを軽々と抱きかかえてカフェテリアを出る。後に残されたクレイやブルーノが気に掛かったが、マヤの真剣な表情にルーは口を噤み大人しく運ばれることにした。
待機していた御者が驚きの表情を浮かべたのは一瞬で、すぐさま支度し馬車を出発させると、ようやくマヤが声を発した。
「ご体調に気づかず大変申し訳ございません」
「マヤのせいじゃないの。お願いだから謝らないで」
その場しのぎの嘘だったのに、罪悪感で本当に気分が悪くなる。
「なるべく揺れないように速度を落としております。お辛ければ横になっても大丈夫ですよ」
俯いたルーに気遣うようなマヤの声が聞こえる。このまま屋敷に戻ればアレクシスが心配するだろう。医者を呼び看病するために仕事を中断してしまうに違いない。
ルーが番であるばかりに迷惑をかけてしまう。
どうして急に体調を崩したのか、クレイから聞いたことは話せない。だが知らない振りをして取り繕う自信もない。
「……帰りたくない」
小さな声だったが、こぼれ落ちた本音にルーははっとして口元を覆った。こんな我儘を言ってこれ以上困らせるわけにはいかないのだ。
「承知いたしました。行先を変更しましょう」
静かな声で告げて御者に行先を指示するマヤを、ルーは信じられない思いで見つめたのだった。
「お嬢様がお望みでしたら、しばらくこちらに滞在しても大丈夫です。ご主人様にはお伝えしておきます」
「……本当にいいの?勝手なことして、マヤが怒られたりしない?」
到着したのは高級ホテルの一室だった。広々としたリビングスペースにベッドルームが2部屋、浴室や洗面所などもそれぞれの部屋に付いていて、簡易なキッチンスペースまである。
「私がお嬢様のお世話を担当する際に厳命されたことが二点ございます。一つは護衛として守り抜くこと、もう一つはお嬢様のお願いごとを最優先することです。私だけは何があってもルー様の味方でいるようにと仰せつかっておりますので、今回のような場合にご主人様が私を罰することはございません」
こんな風に幾重にも大切に護られているのに、ルーはアレクシスのためにしてあげられない。ルーが番だったせいでアレクシスは幸せになれないでいる。
「対価もなく何かを受け取ることは居たたまれないですよね」
「え……」
内心を見透かしたような言葉は共感するような響きが込められていて、ルーはどう反応してよいか分からず固まってしまう。
「あまり愉快な話ではありませんが、少し昔話をいたしましょう」
そう前置きしてマヤは静かな口調で語り始めた。
熊族の侯爵家の一人娘だったマヤの母親は旅行に訪れた国で、番に出会った。父親は平民の人族だったが、番だからと目立った反対もなく婚姻を結び、幸せな家庭を築いていくはずだった。
しかし不幸だったのは人族である父親は番に対する認識が浅く、非常に女性にだらしない性格だったことだ。
「私が生まれるまでは大人しくしていたそうですが、物心ついた時には既に屑でしたね」
マヤの声に軽蔑の響きが混じる。自分と同じ番だったマヤの父親が気になったルーだが、マヤは淡々と言葉を紡ぐ。
女遊びだけでなく酔っ払っては妻子に手を上げる男をそれでもマヤの母親は愛したという。父親がいる時はマヤのことなど見向きもしなかったが、父親が外出すると思い出したように世話をしていたため、完全に育児放棄されなかったことは不幸中の幸いだった。
しかしそんな不安定な生活も、激昂した母親が浮気相手を殴り殺しかけたことで、あっさりと壊れることになる。
生家である侯爵家が賠償金を支払い、母親を引き取ることになった時には、何度も番に裏切られたことで精神的に不安定になっていた。
マヤは父親に似た顔立ちであり母親と一緒にいさせられないという理由から、離縁金とともに父親に押し付けられることになり、それからマヤの生活環境は下降の一途を辿った。
当時6歳だったマヤは自分の世話は何とか出来るようになっていたが、食べ物を買うお金をもらえず常に空腹を抱えている状態だった。熊族の血が流れているおかげで、荷物運びなどを手伝いもらった手間賃で食いつないでいたものの、それすら父親に奪われた日にマヤは家を飛び出した。
これ以上ここにいても碌なことがないと見切りをつけて。
「とはいえ現実は甘くなかったのですが、幸運なことに私は父様と出会いました。空腹のあまりゴミ捨て場を漁っていた私に父様はパンを与えてくれただけでなく、事情を聞くと行く当てがないならと家に連れて帰ってくれたのです」
懐かしそうに、大切な物を抱きしめるように語るマヤの表情は柔らかい。だが最初からマヤはバートに懐いたわけではないという。
「騙されて売り飛ばされるんじゃないかと思っていましたし、その後は変態なのかと思って余計に警戒していました。でもすべてが善意からの言動なのだと知った時は、とても怖かったです」
その気持ちはルーにも痛いほど分かった。大切にされることは嬉しいし心が満たされるのに、与えられるばかりの状態はどこか歪で申し訳なさが先に立つ。それでいて失うことを考えると不安に襲われるのだ。
「居た堪れなくて、自分の無力さがもどかしくて、働こうとしても、父様は子供だからと許してくれませんでした。それで外に仕事を探しに行ったら、渋々とテレサの元に連れていってくれました」
見習いと働いているうちにバートに対する不安も消えた。役に立たなくても我儘を言っても見捨てられることはないと思うようになった頃、養女にならないかと切り出された。
マヤが自分の意思で選べるようになるまで待っていたらしい。
「私とルー様では多少境遇が異なりますが、理解できる部分も多くあったのでルー様の侍女を決める時に立候補させていただきました」
護衛兼侍女の能力が高いためアレクシスから指名されたのかと思っていたのに、そこにマヤの意思が存在していたと聞いて、背中を押されるように訊ねた。
「マヤは番の存在が嫌じゃないの?」
「いいえ。血縁上の父は番だから屑だったわけではありませんし、母が心を病んでしまったのは母自身の選択です。私はルー様を好ましく思っているのはご主人様の番だからではなく、努力家で優しい方だからですよ」
マヤの優しい眼差しに、心に刺さっていた棘がぽとりと抜けたような気がした。




