絶対的な存在
クルトの姿を認めた途端に、マヤがすぐさまルーを背後に庇う。
「お嬢様に何か御用ですか?」
「少し、話がしたいだけだ。貴女は外してもらおう」
「ご主人様から話を伺っております。そんなことが許されると本気でお思いですか?」
ぐっと言葉に詰まるクルトに、マヤは冷ややかな眼差しを向けると、ルーを促し立ち去ろうとした。
正直なところ先ほどまでのショックがまだ冷めやらぬうちから、クルトと話をするのは気が重い。
しかしクルトの一言でルーは足を止めてしまった。
「メリナが話したがっているのに、何故避ける?」
「……そのような事実はございません」
むしろ話しかけようとしたルーをメリナが避けていたはずだ。あっさりと否定したせいか、クルトは少し驚いた表情を浮かべながらも言い募る。
「その侍女が怖くて近づけないとメリナが泣いていたんだ。妹のそんなささやかな願いぐらい叶えてやってもいいだろう?」
「そんな繊細な方とは思えませんが。それほど他者に聞かれたくない話など、きっと碌な内容ではありませんね。お嬢様、参りましょう」
断固拒否の姿勢を見せるマヤに頷いて、ルーはクルトに告げた。
「メリナとは今朝話をしましたので、恐らく用件は済んだのかと思います。失礼いたします」
「待て!話はまだ終わっていない」
クルトが伸ばした手は反射的なものだったのだろうが、まだ襲われかけた記憶が鮮明なルーにとっては恐怖以外の何物でもなかった。
「嫌っ!」
ルーが反応するより早く、察知したマヤがクルトへと拳を叩きつけようとしていた。しかし流石は騎士というべきか、クルトは危うげなく回避して間合いを取っている。
「お前、その力は熊族か?その割には小柄だな」
「貴方こそ家族を大切にする狼族とは思えませんね?お嬢様が不当な扱いを受けているのは一目瞭然ですのに」
会話を交わしながらもお互いに拳や蹴りを繰り出しており、ルーは気が気ではない。マヤの強さは予想外だったものの、騎士であるクルトが相手では分が悪いだろう。
止めなければと思うのに、安易に声を掛けてマヤの邪魔になってはとタイミングを掴めず見ていることしか出来ない。
「男性と殴り合うなんて野蛮ね。やっぱりあの侍女はいらないわ」
「……メリナ。マヤは私を庇ってくれただけなの」
にっこりと微笑むメリナはとても愛らしいが、それがルーに向けられるときは大抵別の意味を持っている。
「お姉様、お家の中に他人がいるのは嫌だわ。これまで通りお姉様が全部お家のことをしてくれるなら、追い出さないであげる。でもマヤはあの御方の命令でお姉様の側にいるのだからお姉様の命令には従わないわよね」
困ったとばかりに溜息を吐くメリナは、それでも愉しそうに目を細めている。ルーが望まないことを強請り、大切にしていたものを奪おうとする時の表情だ。
「だから、これを貸してあげるわ」
押し付けられて思わず受け取ってしまったのは、鞘と柄に美しい宝石が埋め込まれた短剣だ。思わず身震いするルーを見て、メリナは満足そうに微笑んでいる。
「怪我をすれば流石に侍女でいることを考えなおすのではないかしら?別に大怪我を負わせる必要はないわ。ただ少し脅かすだけよ。早くしないとクルト様がもっと酷い怪我を負わせてしまうかもしれないわ」
体格差のせいか、気づけばマヤが徐々に窓際へと追い詰められている。しかしマヤは背後にあった机に飛び乗り、拳で窓ガラスを割ったかと思うと、呆気に取られたクルトの隙をついて跳躍した。
「お嬢様から離れろ」
メリナとの間に入ったマヤはルーを背中へと庇い、血相を変えたクルトも慌ててメリナの肩を抱き、マヤから遠ざけていた。
ぽたりと落ちる鮮血は窓ガラスを割ったせいだろう。
(私のせいでマヤが怪我を……)
ひゅっと喉が鳴り、息が上手く出来ない。マヤとクルトが言い争っているようだが、耳に幕が張ったように聞き取れない。狭まる視界と息苦しさの中でメリナの顔が微笑み、その声は何故か鮮明に届いた。
「お姉様、私たち家族でしょう?」
彼らと家族であることを選んだのはルー自身だ。
『私と一緒に領地で暮らそう。あんな親どもにお前を任せておけない』
同じ髪色と同じ瞳の凛とした女性がそう言って差し出してくれた手は、日に焼けていてとても逞しく見えたのを覚えている。
初めて会うお祖母様はメリナだけでなくルーにも声を掛けてくれたし、いい子だと頭を撫でてくれた。
だけどお父様もお母様も終始不機嫌そうにしていたから、喜んではいけないのだと顔に出さないよう気を付けた。
領地で暮らすということ、任せておけないという言葉をしっかりと理解していなかったルーは、ただ思ったことをそのまま口に出した。
『お父様とお母様とメリナも一緒?』
『馬鹿息子たちはたとえ望んだとしても連れていかないよ。領民に迷惑を掛けるに決まっているからね』
苦虫を噛み潰したような表情はお父様たちがルーに向ける表情に似ていて、お祖母様が彼らのことを良く思っていないのだということだけは分かった。
それならばルーもいつか同じように嫌われてしまうのではないだろうか。幼い心で出した結論にルーは悲しくて堪らなくなった。
『ルー、おいで』
『嫌、行かない!お祖母様なんて大っ嫌い!!』
『ルー!』
無性にお父様やお母様に会いたくて、普段なら室内を駆け回ることなどしないのに逸る気持ちが抑えられずにリビングを開いた。
『あら、何でいるの?お義母様が引き取ると言っていたのに』
『屋敷内を走るんじゃない!まったく騒々しい』
望まれていないのだという現実を突きつけられて、自然と涙が浮かんできた。泣けばまた叱られると必死で堪えていると、場違いなほどに明るい声を上げたのはメリナだ。
『お父様、お母様、メリナはお姉様と一緒にいたいわ』
いつも我儘ばかりのメリナが天使のように見えた。比べられてばかりだし、困らされてばかりだった妹が必要としてくれることが嬉しかったのだ。お父様たちはメリナが言うならとルーは屋敷に留まることを許された。
だけど二人きりになってから、天使は悪魔へと変わった。
『お姉様を家族にしてあげたんだから、メリナの言うこと何でも聞いてね。聞いてくれないと捨てちゃうんだから』
その日からルーはメリナにとって逆らうことが出来ない絶対的な存在となったのだ。
(あれからずっと……)
厳しくも優しい祖母を拒絶してから、大切なものを奪われ、悪評を立てられ、使用人のように扱われる中で、ルーにはもはや家族しか残っていなかった。
『ルーが困ったことになるなら、私が必ず何とかしてあげるから』
アレクシスの言葉が頭によぎる。ルーのことを心配し大切にしてくれようとした人だ。マヤもアレクシスの命令であっても、常にルーの意思を尊重してくれた。
そんな優しい人たちを傷付けるようなことは出来ない。
「お姉様?」
痺れを切らしたかのようにメリナの微笑みに苛立ちが浮かぶ。逆らうことを許さない瞳にルーは覚悟を決める。
(だったら答えは一つしかないわ)
短刀を両手で強く握りしめる。鞘を抜き、何かを察したようにマヤが振り返ったがルーのほうが早い。
(私がいなくなればいい)
ルーは勢いよく自分の胸に向かって短剣を突き立てた。




