悪い噂
(何だか……すごく見られている気がする)
ルーを見て顔を顰めて距離を置くのは令嬢たちで、その視線が妙にきつい。令息たちからは何故かじろじろと見られているが、その視線も好意的とは言い難いものだ。
「お嬢様、許可をいただければ叩きのめしてきますが」
「駄目よ、絶対にしないでね」
真顔でそんなことを言うため念のためしっかりと制止しておく。マヤ自身では無理だろうが、護衛に指示して実行する危険性がゼロではないのだ。
好意的でない視線や悪い意味での注目を集めるのは初めてではない。だからあまり気にせずにいようと思ったのだが、学園長からの呼び出しを受けてその考えはあっさりと覆されることになった。
「エメリヒ嬢、君が不純異性交遊を行っているという噂が広まっている。心当たりはあるかね?」
(……不純異性交遊)
まさかの内容に呆然としていると、学園長は探るような目でルーを見ていてヒヤリとする。そんなことはしていないのだが、どうやって疑いを晴らせば良いのだろうか。
「事実無根です。このような悪意に満ちた中傷を学園として放置されるおつもりですか?当然噂の出所を追及いたしますよね?」
毅然とした態度のマヤだが、いつもより強い口調に怒っているのだと分かる。その迫力に気圧されたのか、学園長は誤魔化すようにハンカチで額を拭いながら言った。
「大事にすると却って信憑性を高めかねない。事実でないのならそのうち収まるだろう。疑われるような言動はくれぐれも慎むように」
話は終わりだとばかりに告げられた言葉に、マヤは柳眉を逆立てる。その様子を見たルーは急いで立ち上がり、マヤと一緒に学園室を後にしたのだった。
「このような下劣な噂を流した者は絶対に許しません。必ず突き止めますからしばしお待ちを。……それまでは学園をお休みいたしますか?」
冷ややかな怒りを浮かべていたマヤが、気遣うようにそう提案してきた。原因が分かった今、嫌悪と品定めするような視線に晒されるのはぞっとするが、学園を休めばますます疑念を深めてしまうのではないだろうか。
「私は、大丈夫よ。それよりもしばらく私と一緒に行動しないほうがいいわ」
自分だけならともかく、マヤまで同類だと見なされてしまうのは嫌だった。初日の言動で一部の令嬢たちの反感を買っているため、ルーの噂に巻き込まれてしまう可能性が高い。
「お嬢様の側を離れるなんて出来ません。ご主人様にも叱られてしまいます」
迷いもなく断言されるとルーもそれ以上は何も言えない。ルー自身もマヤから離れないようアレクシスに言われているのだ。
打開策も出ないままルーはマヤと一緒に教室へと向かった。
「エメリヒ嬢、学園長がお呼びです。例の件で、少し確認したことがあるとのことです」
午後の授業が始まる直前、ルーに声を掛けてきたのは事務員の男性だった。すかさず立ち上がったマヤにルーは苦笑しながら言った。
「すぐに戻るからマヤは授業を受けて。席を外している間のノートをお願いしたいの」
「勉学は学生の本分です。それほどお時間は取らせませんよ」
ルーを援護するように事務員も声を掛けると、マヤは納得していない表情を浮かべつつ腰を下ろす。なるべく早く戻ってこようとルーは事務員の後に続いた。
(あら、こちらは学園長室に行くには遠回りでは……?)
そんなルーの疑問を読み取ったかのように事務員が振り返った。
「学園長は別の場所でお待ちです。授業になるべく支障が出ないよう配慮してくださったのでしょう」
今朝の様子からすれば意外に感じたものの、さほど相手のことを知らないうちに判断するのは良くないと思いなおす。学園長として学園の風評に関わることなので大事にしたくないという気持ちも理解できるし、学業のことを考えて配慮してくれるのなら真面目で良い人なのかもしれない。
事務員が足を止めたのは相談室で、手のひらを上に向けて入室を促す。
「失礼します」
ノックのあとに扉を開けると妙に薄暗い室内に違和感を覚えた途端、ルーは背中を強く押されてたたらを踏んだ。
扉が閉まる音に続いて鍵が閉まる音が聞こえて、嫌な予感を覚えた。咄嗟に扉に向かいかけたルーを背後から肩を掴まれて悲鳴を上げかけたが、すぐに口元を押さえられてしまいくぐもった声にしかならない。
「大人しくしろよ。どうせ、いつもやっていることなんだろう」
「その顔でどうやって誘惑してるのか俺たちにも教えてくれよ。金なら払ってやるからさ」
パニックになりながらも必死に抵抗するが、令息二人に押さえつけられてはびくともしない。視界の端に見物するかのようににやにやと嫌な笑いを浮かべているバルテン伯爵令息の姿が映り、どうやっても逃げられないと悟った。
腕の力が抜けたことで抵抗を止めたと判断したのか、口元を覆っていた手が外される。
「噂になっているようなことなんて、何もしていないわ!お願いだから離して、こんなの犯罪――んんっ」
乱暴に口に布のようなものを突っ込まれて、再び口を封じられた。
「娼婦の真似をして獣族の方に取り入っても所詮戯れだろう。欲求不満なら付き合ってやるからこれ以上醜聞を晒すなよ」
バルテン伯爵令息の言葉に反応するように、一人が背後からルーの両腕を押さえ、もう一人の手が制服に掛かる。
(嫌!誰か助けて)
脳裏に思い浮かんだ姿を、断ち切るように目をきつく瞑る。
それでも恐怖と絶望で涙が零れた時、扉のノブを強く回す音が聞こえた。誰かが外にいると気づいたと同時に声の代わりに床を強く蹴って音を立てる。
「痛い目に遭いたいのか」
そう凄まれて恐怖を感じる前に、扉の方から凄い音がして蝶番が弾け飛ぶ。バキッと重い音とともに扉を掴んで横に放り投げたのは、憤怒の表情を浮かべたマヤだった。
「ば……化け物」
「その薄汚い手を離せ」
マヤを罵る令息の声は僅かに震えていて怯えが伝わってくる。静かな感情の窺えない声音でマヤは躊躇なく近づいてきて、ルーを拘束している男の両手を掴んだ。
鈍い音とともに絶叫が上がると同時に、ルーの身は自由になっていた。
「お嬢様、遅くなりまして大変申し訳ございません。……少し掃除が必要ですので少々お待ちください」
扉近くまで誘導されて告げられた言葉は柔らかいが、否定を許さないような圧力がありルーは無言で頷いた。
そんなマヤに呆気に取られていた令息たちだが、腕を押さえて悶えている令息を除いても3人いるのだ。自分たちが優位な状況だと確信し、余裕のある表情を取り戻している。
「ルー様を貶める噂を流したのは貴方たちですか?」
「自業自得だろう。学園の品位を損なう女に身の程を教えてやろうとしただけだ。それなのに勘違いして使用人の分際で貴族に暴力を振るうなど許されると思うなよ」
「許されないのはお前たちのほうですが、取り敢えず私からの分はここで済ませておきましょう」
軽蔑が籠る一瞥をくれると、マヤはダンスを踊るように優雅に、だが容赦なく拳を振るった。あっという間に、床には呻き声を上げることしか出来ない令息たちが並んでいる。
マヤに怪我がないことにほっと胸を撫で下ろしていると、冷ややかな表情で彼らを見下ろしていたマヤがはっとしたように顔を上げる。
釣られるように入口のほうに顔を向けると、そこには険しい表情のクルトが立っていた。




