プロローグ 桜の下の祈り
夜の桜は、月明かりを受けて淡く光っていた。
白桜国──大陸の東端にひっそりと佇む小国。
人口はわずか数万、国土も山と川に囲まれ、耕地は狭い。だが人々は素朴に働き、春の訪れを喜び、桜の花を神に捧げて生きてきた。
城下を流れる川のほとりに、一本の大樹がある。
白き花を無数に咲かせるその桜は、国の象徴であり、民にとっては祈りの象徴でもあった。
その根元に、ひとりの少女が膝をつき、掌を合わせていた。
「……どうか、皆をお守りください」
巫女姫──ミコト。
紫水晶のような瞳が、かすかに月光を映して揺れる。
髪は黒く、先端はわずかに桜色に染まり、夜風に揺れるたび光を帯びる。
その姿は神秘的で、まるで桜の精そのもののようだった。
彼女は幼い頃から「覇女」と呼ばれてきた。
四神を降ろし、大陸に秩序をもたらす存在。
それがこの国に伝わる古い予言だった。
けれどミコト自身は知っていた。
白桜国は小さく、兵も乏しく、戦乱に抗う力など持たない。
隣国──黒鉄帝国が本気を出せば、一日で踏み潰されるほどに。
「……わたしなんかが、覇女だなんて……」
呟いた声は、夜風に消える。
ミコトは、祈り以外の術を知らなかった。
剣を握ったこともなければ、戦場に立ったこともない。
けれど、国の者は皆「覇女様がいるから大丈夫」と信じ、彼女に未来を託した。
それは、温かく、しかし同時に重い鎖だった。
そのとき、背後から柔らかな声が響いた。
「ミコト。まだ祈っていたのかい?」
振り返ると、そこには母がいた。
神殿で祈祷を司る巫女長であり、ミコトに術と祈りを教えた人。
白衣に淡い桃色の帯を纏った姿は、夜桜に溶け込むように美しかった。
「母上……」
「今日は祭りでしょう? 民もきっと、姫様が顔を見せてくれるのを待っているわ」
母は微笑む。その声には、どこか不安を隠す影があった。
ミコトは小さく首を振り、膝の上で握りしめた手を見下ろした。
「……怖いのです。
もし、わたしが本当に四神を呼んでしまったら……
守るどころか、すべてを焼いてしまうのではないかと」
母はそっと彼女の肩に手を置いた。
「力は人を焼くこともあれば、照らすこともある。
どちらになるかは……ミコト次第よ」
紫の瞳が揺れる。
その言葉は温かいのに、責任を突きつけられるようでもあった。
城下から祭囃子が聞こえてきた。
白桜祭──春を迎えるこの国最大の祭礼だ。
露店の声、子どもたちの笑い声、笛や太鼓の音。
一瞬だけ、戦乱の気配など存在しないかのように、賑やかな光景が広がっていた。
「姫様! 飴はいかがですか!」
「ミコト様、一緒に踊りましょう!」
民が無邪気に声をかける。
ミコトは微笑みを返すが、その胸は冷たかった。
彼らは知らない。
この国が、帝国の軍に狙われていることを。
そして、その「守り」が、自分に託されていることを──。
夜空に、雷鳴が轟いた。
遠く、東の空を朱に染める光が走る。
「……嵐……?」
民が顔を上げる。太鼓の音が途切れ、静寂が降りた。
ミコトの背筋を、冷たい悪寒が走った。
──その夜が、白桜国最後の祭りとなることを、
このとき誰も知らなかった。




