第5章 雨の日の実験室
雨が降る日は、陸にとって危険日だった。
湿気によるカビの活性化、空気中の微粒子の変化、さらに気圧の低下による自律神経の乱れ——それらすべてが、彼のアレルギー反応を誘発する。
朝、ベッドから起き上がった瞬間、身体がざらつくような感覚を訴えてきた。
「……ヤバいな」
それでも、陸は研究室へ向かった。青い薬の効果が、まだ確かめられていない段階だったから。逃げてばかりでは、前に進めない——そう思っていた。
***
その日の研究室は、雨音が壁越しに滲むように響いていた。
宮坂楓は、いつも通りの白衣姿で、モニターとサンプルの整理をしていた。
「陸くん、顔色……悪い」
彼女が気づいたのは、すぐだった。陸の頬はうっすら赤く、呼吸が浅い。
「湿度が……少し高いかも。大丈夫、いつもの軽い反応……だから」
そう言ってみせたものの、声はかすれていた。
汗が手袋の内側に滲んでいく。視界の端が揺れる。
「陸くん、座って。モニター見るから」
楓が素早くタブレットでバイタルを確認する。
脈拍、上昇。皮膚のヒスタミン値も急激に増えている。
——アナフィラキシー前兆。
彼女は即座に行動に移った。抗ヒスタミン剤、エピペン、自動注射器……準備はしていた。だが、一瞬だけ手が止まった。
「……手袋、じゃダメかも」
陸は、壁にもたれながら言った。
「皮膚感覚が……麻痺してる。針、深く刺せない……」
そう、それは一番恐れていた状況だった。
楓が薬を打つには、直接肌に触れなければならない。
彼にとって“触れられること”は、死を招く可能性がある。
でも、今触れなければ——彼は死ぬ。
「ごめん……!」
楓は、決断した。滅菌手袋を外し、素手で陸の腕をつかんだ。
その瞬間、陸の体がビクリと跳ねた。
皮膚が反応を起こす。赤みが走る。でも、楓の指は迷わなかった。
「お願い、これだけは……生きて」
針が、陸の腕に深く入る。
青い薬が体内に流れ込み——
次の瞬間、陸の意識は途切れた。
***
数時間後。
陸は病室のベッドで、静かに目を覚ました。
横には、眠ったままの楓がいた。彼のベッドの横で椅子にもたれ、手には赤くなった皮膚を冷やすパックを握っていた。
「……バカだな」
陸は、かすかに笑った。
触れてはいけない、と自分で言ったのに。
でも今、彼女のぬくもりだけが、確かに命をつないだのだ。
雨の音が、まだ遠くで鳴っていた。
その音が、今だけは優しく聞こえた。