第4章 好きになることは、罪ですか?
彼女は、毎朝同じ時間に研究室に来る。
白衣の下にはいつも同じ種類のコットンシャツ。香水も整髪剤も使わない。リップすら塗らず、ただ静かに笑っている。
それらはすべて、綾瀬陸の命を守るための配慮だった。
だが陸にとっては、それ以上の意味を持っていた。
——僕のために、ここまでしてくれる人がいる。
その事実が、怖かった。
「今日も顔色いいね、陸くん。青い薬、効いてるみたい」
「うん、まだ反応は出てない。……でも、調子に乗ると崩れるから」
「ふふ、慎重だね。でも、それが君の強さだと思う」
彼女の声は、ガラス越しでもやさしかった。
まるで温室の中の音楽のように、柔らかく、陸の神経をなでる。
***
その日の午後、楓がふとつぶやいた。
「陸くんは、恋をしたことある?」
その言葉は、あまりに唐突で、あまりに繊細だった。
「……あるわけないでしょ」
陸は、自嘲気味に笑った。
「僕は人と手をつなぐこともできない。食事も、外出も、キスなんて……命がけだ。そんな僕が“恋”なんて、しちゃいけない」
楓は、黙って聞いていた。何も否定せず、目をそらさず、ただ受け止めていた。
「……じゃあ、“してはいけない”って、誰が決めたの?」
「……え?」
「あなた? 医者? 社会?それとも、体?」
陸は答えられなかった。
正論だった。でも、怖かった。期待すれば、痛む。望めば、失う。
「私はね、誰かを好きになることって、それだけで尊いと思う。たとえ触れられなくても、そばにいられなくても……想うだけで、十分意味があると思うの」
彼女の声は、決して強くはなかった。でも、不思議と胸に残った。
その日の夜。陸は部屋で、研究ノートの余白に一文だけ書いた。
「僕は——もしかして、彼女が好きだ。」
けれどそのすぐ下に、こう書き足してしまった。
「……それは、罪ですか?」