風が名前を呼ぶとき 【 楓の老後 】
楓は、八十を超えても背筋を伸ばして歩く人だった。
白髪はすっかり銀色になり、声も穏やかに、時折子どものような柔らかさを帯びていた。
けれど、その瞳の奥には、若き日の熱と愛が、今も燃えていた。
いちかは、もうずっと前に旅立っていた。
彼女が息を引き取った日、楓はその体をそっと抱き、陸の名前を呼んだ。
「君のそばに、行ったんだね」
その言葉に、悲しみよりも微笑みが先に浮かんだのは、不思議だった。
陽向は今、医師として多くの命と向き合っている。
父のように優しく、母のように強く。
澪は研究者となり、アレルギー治療の先端を支えている。
その姿はまるで、陸と楓、ふたりの生き様を受け継いだようだった。
「おじいちゃん、今日は桜の丘に行こうよ」
小さな手が、楓の手を引いた。
それは澪の娘――陸の面影をほんのりと残す、澄んだ瞳を持った少女だった。
春の風が吹いていた。
楓は、ゆっくりと、だが確かな足取りで桜の並木を歩いた。
心臓の鼓動は静かで、時折陸の声が風に混じって聞こえるような気がした。
丘に着くと、楓は腰を下ろし、そっと目を閉じた。
「陸……俺ね、ひとりで生きてきたようで、ずっと君と一緒だったんだよ」
風が、やさしく髪を撫でる。
「君の笑顔も、君の声も、ずっと俺の中で生きてた。だから、もう寂しくないんだ」
目を開けると、空はどこまでも高く、どこまでも青かった。
手をつないでいた少女が、小さく笑って言った。
「おじいちゃん、パパとママが言ってたよ。おじいちゃんは、誰よりも優しくて、強かったって」
楓は笑った。
「そうか……じゃあ、俺はきっと、幸せな人生だったんだな」
風がふわりと吹いた。
それはまるで、誰かが名前を呼んだような、懐かしい音だった。
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終わりじゃない。大切な人の記憶がある限り、物語は続いていく。




