第十章:君の名前を呼びたい
夏の終わりが近づく頃、陸の心は少しずつ、確かな変化を感じていた。
あの遠くて触れられなかった距離が、今は手の届く場所にある。
ある日、楓といちかと一緒に散歩しているとき、ふと陸は思った。
「誰かの名前を、心から呼べるって、こんなに温かいものなんだな」と。
いちかの名前を呼んだとき、彼女は一瞬で振り向き、無邪気に尻尾を振った。
その小さな命が、陸の孤独を少しずつ溶かしてくれていた。
楓の名前も、最近は自然に口からこぼれるようになっていた。
「楓」と呼ぶと、彼の顔がふっと柔らかくなり、優しい笑顔が返ってくる。
ある晩、陸は楓の家で初めて夕食を共にした。
緊張で手が震えたけれど、その場にある温かさが、心をゆっくりほどいていった。
食卓の向かい側で、楓がふいに言った。
「陸、君が俺の名前を呼んでくれた時、本当に嬉しかった」
陸は目を見開いた。
今まで、名前を呼ばれることさえも、どこか怖かったのに——
「俺も、君の名前を呼びたい。もっと、たくさん」
その言葉は、陸の新しい一歩の象徴だった。
夏の夜空には、無数の星が輝いていた。
それはまるで、陸の未来の可能性を映し出すかのように。
夕食を終え、二人はリビングのソファに並んで座った。
静かな空間に、二人の呼吸だけが響いている。
陸は少し勇気を振り絞り、楓の手にそっと触れた。
その瞬間、胸の奥にあった不安や恐れがゆっくりと溶けていくのを感じた。
「楓、ありがとう。君がいてくれて本当に良かった」
陸の声はまだ震えていたが、確かな想いが込められていた。
楓は優しく微笑みながら、そっと陸の手を握り返した。
「僕も、陸がいてくれて嬉しいよ。これからも、ずっと一緒にいよう」
二人の間にあった距離は、もう二度と戻らない。
それは触れ合い、信じ合うことで生まれた絆の証だった。
夜が更ける頃、いちかが二人の膝の上で眠りについた。
その姿に、陸は新しい家族のぬくもりを感じていた。
夏の星空の下で、彼らの物語は静かに、しかし確かに続いていく。
その夜、陸は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
夢の中で、彼は自由に走り回り、誰にも邪魔されずにいちかと遊んでいた。
それはまるで、長い間閉じ込めていた心の扉が一気に開いたような感覚だった。
翌朝、目覚めた陸は、窓から差し込む朝日の温かさを感じながら、そっと楓の名前を呼んだ。
「楓……」
その声は、以前よりもずっと自然で、心からのものだった。
楓はすぐに駆け寄り、にっこりと笑った。
「おはよう、陸。今日もいい日になりそうだね」
陸は笑顔で頷いた。
「うん、これからも一緒に歩いていこう」
新しい季節が、二人といちかを包み込んでいく。
過去の傷も、アレルギーの苦しみも、すべて乗り越えて——。
日が昇るとともに、陸はふと自分の心の奥底から湧き上がる感情に気づいた。
「楓」という名前を呼ぶことは、もう単なる言葉ではなく、彼への信頼と愛情の証だった。
楓もまた、陸のその変化を感じていた。
互いの存在が、これまでの孤独を溶かし、新しい未来への扉を開いていく。
その日、陸は楓に尋ねた。
「俺たちのこれからって、どんな未来になるんだろう?」
楓は静かに答えた。
「わからない。でも、一緒に歩くなら、怖くないよ」
陸はその言葉に安心し、笑顔を返した。
彼の心はもう、過去の痛みから解放されていた。
いちかも二人のそばで尻尾を振り、まるで祝福しているかのようだった。
夏の風が穏やかに吹く中、三人の未来はゆっくりと、しかし確かに動き出していた。
その夜、陸は窓辺に座りながら、星空を見上げていた。
数えきれない星たちが瞬き、まるで未来への無限の可能性を示しているようだった。
「楓の名前を呼べるようになった今、俺は本当に変われたんだ」と、心の中で呟く。
そこへ、静かに楓が近づいてきて、そっと肩に手を置いた。
「陸、星を見ながら話すのは、君と初めてだね」
陸は笑みを浮かべ、「これからも、もっと一緒にいろんなことを経験したい」と答えた。
楓はその言葉に深く頷き、二人は夜空の下でしばらく言葉を交わさず、ただその時間を共有した。
いちかもそっと二人のそばに寄り添い、柔らかな寝息を立てていた。
その夜、陸の心は、これまでになく穏やかで満たされていた。
翌朝、朝日がカーテン越しに差し込み、部屋を黄金色に染めていた。
陸は深呼吸をして、ゆっくりと起き上がる。
隣にはまだ眠る楓の姿があり、その穏やかな寝顔を見ているだけで胸が熱くなる。
「今日は特別な日になりそうだ」
そう思いながら、陸はそっと楓の名前を呼んだ。
「楓、起きて」
楓がゆっくりと目を開け、柔らかく笑う。
「おはよう、陸。何かあるの?」
陸は照れくさそうに笑いながら言った。
「これから、もっとちゃんと君の名前を呼んで、一緒に歩いていきたいんだ」
楓は優しく手を差し伸べ、陸の手を握った。
「それが聞けて嬉しいよ。これからもずっと、君のそばにいる」
いちかも二人の足元で尻尾を振りながら、幸せそうに顔をあげた。
新しい日々の始まりを告げる朝の光の中で、三人の絆はより強く、深く結ばれていった。
海辺での穏やかな時間が流れた後、陸はふと小さな声で言った。
「楓、俺……君に伝えたいことがあるんだ」
楓は真剣な表情で陸を見つめ、うなずいた。
「何でも話していいんだよ」
陸は深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「これまで、100ものアレルギーが俺を苦しめてきた。体だけじゃなくて、心もずっと傷ついていた。でも、君といちかのおかげで、少しずつ強くなれた。だから、これからも一緒に歩いてほしい」
楓は優しく陸の手を握り、微笑んだ。
「もちろんだよ。君がどんな過去を抱えていても、俺はずっと君のそばにいる」
いちかが二人の間に割り込んできて、二人の手の間に鼻をつけた。
その瞬間、陸は確信した。
「これは、俺の新しい家族なんだ」と。
波の音が遠くで響き、夕陽が海を黄金色に染めていく。
その光景は、これからも続く彼らの物語の始まりを優しく祝福していた。
海辺の穏やかな空気の中、陸は楓といちかの存在を改めて感じていた。
これまでの孤独な日々が嘘のように、心が満たされていく。
「楓、ありがとう。君と出会えて、本当に良かった」
陸の声は静かだったが、真剣な想いが込められていた。
楓は優しく微笑み、陸の肩にそっと手を置いた。
「俺もだよ、陸。これからもずっと、一緒に歩こう」
その時、いちかが元気よく吠えて、二人の間を駆け回った。
その姿に、二人は自然と笑顔になった。
夕陽が沈み、空が茜色に染まる頃、三人は手をつないで歩き始めた。
未来はまだ見えないけれど、確かな絆が彼らを支えていた。
夜が更けて、陸と楓はいちかを囲むようにして小さなリビングでくつろいでいた。
いちかの寝息が心地よく響き、静かな安心感が部屋を満たす。
陸は楓の目を見つめ、静かに言った。
「もう怖くないよ。君と一緒なら、どんな困難でも乗り越えられる気がする」
楓はその言葉に微笑みを返し、陸の手をしっかり握った。
「ずっと君のそばにいる。約束するよ」
いちかがそっと陸の膝に顔を乗せる。
その柔らかな温もりが、これまでの孤独を溶かし、新しい家族の絆を確かに感じさせた。
外では静かに夜風が吹き抜け、星々が輝いていた。
未来への希望が、静かに陸の胸に灯っていた。




