第八章:夏がくる、そして過去も…
夏の陽射しが、町をじりじりと焼いていた。
陸は、いつもより少し重い足取りで歩いていた。
夏の訪れは、新しい季節の始まりを告げるはずなのに、彼の胸には過去の影がぽっかりと居座っていた。
学生時代——
アレルギーだけではなかった。
学校では、友達はできず、同級生たちの陰口や嫌がらせが絶えなかった。
「気持ち悪い」「触るな」「あいつ、何でもダメだ」——
耳に焼きついた言葉の数々。教室の隅でひとり涙をこらえたあの日々。
誰かの声が聞こえるたびに、心が凍りついた。
あの頃の自分は、ただ“嫌われ者”だったのだろうか?
それとも、無意識に自分を閉ざしていたから、誰も近づかなかったのだろうか?
陸はその思いを振り払おうと、深呼吸をした。
楓との日々や、いちかの存在が彼を少しずつ変えていることを知っていたから。
それでも、過去は簡単には消えない。
***
ある夕暮れ、陸は幼馴染の佐藤と再会した。
彼は昔とは違い、穏やかで温かい笑顔を向けてきたが、陸の心はまだその距離を縮めることをためらっていた。
「久しぶりだな、陸」
「……佐藤か」
「俺は変わったって思ってるけど、お前はどうだ?」
「俺も、変わりたいと思ってる」
「じゃあ、一緒に歩こうぜ」
佐藤の言葉は真っ直ぐで、陸の胸にじんわりと染み渡った。
けれど、過去の傷は簡単に癒えない。
いじめられた記憶は、陸の心のバリアとなって、誰かと深く関わることを怖がらせていた。
「俺はまだ、誰かを信じるのが怖い」
「わかるよ。でも、無理しなくていい。少しずつでいいんだ」
その夜、陸は静かな部屋で、いちかの寝顔を見つめながら考えた。
過去を抱えたままでも、未来を選べるのだろうか、と。
夏はやってくる。
そして、過去もまた、やさしく彼の心を揺らしながら歩み寄ってくる。
夏の夜風が、窓の外をそっと通り過ぎた。
陸は部屋の灯りを落とし、静かにベッドに横たわった。
いちかがそばで丸くなり、安らかな寝息をたてている。
あの頃の記憶が、まるで霧のように彼の胸にまとわりつく。
心の奥底でまだ消えきれず、時折疼く痛み。
「なんで……俺はあんなに傷ついたんだろう」
無意識に呟いたその言葉は、自分自身に向けられた問いでもあった。
答えは見つからない。けれど、何かが確かに変わろうとしている。
翌日、陸は楓といちかを連れて近くの公園へ出かけた。
鮮やかな夏の光が、緑の葉を照らし、子どもたちの笑い声が風に乗る。
楓が笑顔で言った。
「昔のことは消せないけど、今は“今”を作る時間だよ」
「そうだな……俺も、少しずつでいいから前を向きたい」
いちかがふと立ち止まり、陸の足元に顔をすり寄せた。
彼女の瞳は、まるで「大丈夫だよ」と語りかけるように温かかった。
陸はその瞳を見つめ、固く握りしめた手をゆるめて楓の手を取った。
その瞬間、過去の重さが少しだけ軽くなった気がした。
「ありがとう、いちか。ありがとう、楓」
夏の空は、どこまでも青く、広がっていた。