第七章:免疫の記憶と、手をつなぐ日
夕焼け空が窓を染めていた。
診察室の片隅で、陸は白衣姿の楓と向かい合っていた。
この部屋に初めて入った日のことを思い出す。心臓の鼓動がうるさいほど響いていた、あの日。
今はただ、静かだった。
「……本当に、ずいぶん変わったよね」
カルテに目を落としながら楓が言った。
「何が?」
「血液のデータ。特に、自己免疫反応。前は“敵が多すぎる”状態だったのに、今は“誤認が減ってる”」
「……誤認?」
陸が首を傾げると、楓はボールペンをくるくると回しながら説明を続けた。
「簡単に言うとね、君の体は“必要なもの”まで敵だと思ってた。でも、最近は“これは大丈夫”って、ちゃんと見分けてくれるようになってきた」
「免疫が……学習してるってことか」
「そう。まるで、君自身が誰かと関わることで、“敵じゃない”って心が理解し始めたみたいにね」
その言葉に、陸の心のどこかが静かに震えた。
自分の体が、変わろうとしている。
誰かに触れることを恐れ、閉ざしてきた殻の中に、少しずつ光が差し込んでいる。
「……楓」
陸が言いかけると、楓がこちらを見た。
目が合う。その瞳の奥に、春と夏の境目のような温度があった。
「もしさ、俺の免疫が、もっと誰かを“許せるように”なったら——」
言葉が途切れた。
それは“もし”ではなく、“そうなりたい”という願いだったから。
だが楓は、何も言わず、静かに手を差し出した。
その手を見て、陸は一瞬戸惑った。
昔なら、絶対に触れられなかった手。
恐怖が、脳裏をよぎる。だが——いちかの顔が浮かんだ。
あの子は、陸が「いちか」と名前を呼んだだけで、まるで全てを理解したかのように尻尾を振ってくれた。
自分の不安すら包み込んでくれる存在がいるということ。
それはもう、「孤独の言い訳」は通じない世界に来たことを意味していた。
陸は、そっと手を伸ばした。
その指先が、楓の指に触れた瞬間——
心臓が、一度大きく跳ねた。
けれど、それ以上は暴れなかった。
むしろ、静かな安堵が、体中を満たしていく。
「……温かいな」
思わず漏らしたその言葉に、楓が小さく笑う。
「でしょ。ちゃんと、生きてるからね、私たち」
その言葉は、ただの事実ではなかった。
生きているからこそ、痛みも、恐れも、喜びもある。
そしてそれらを“分かち合える”という奇跡も。
手をつなぐ。
それだけのことが、こんなにも大きな一歩になるなんて、陸はかつて想像もしなかった。
「もうすぐ夏だな」
窓の外を見ながら、陸が言った。
「うん。……夏になったら、一緒に行こうよ」
「どこに?」
「海。——水着、まだ持ってないけど」
「俺、日焼け止め100個ぐらい必要かもな」
二人の間に、ふっと笑いが生まれた。
それはどこまでも自然で、やさしい響きだった。
いちかが、窓辺で丸くなって眠っている。
その小さな寝息が、まるで「今の幸せ」をそっと守ってくれているようだった。