第2章 密室と白衣
天乃大学医学部の先端免疫研究センター。
そこは一般の学生が立ち入ることのできない、完全管理区域だった。
陸の通う“研究室”は、空調、湿度、気圧、アレルゲン濃度すべてが自動調整された特別な密室。研究者が立ち入るには、事前の抗原洗浄と無菌衣の着用が必須で、彼の存在自体が“生体反応の極地”とみなされていた。
その日も、陸はいつものように診察椅子に腰かけ、左腕を差し出していた。
「じゃあ、今日も血液サンプルお願いね。10ml、3本分」
担当医の村田が、慣れた手つきで注射器を構える。
無機質な白い壁。人工的な蛍光灯の光。人の気配はあるのに、どこか“透明”な空間。
「体温も、湿疹も安定。珍しく、完璧だ」
村田の言葉に、陸はわずかに口角を上げた。
しかし、その静寂は、彼女の足音によって破られた。
「失礼します、新任の宮坂です。今日からこちらに配属されました」
振り返ると、研究用の白衣を着たひとりの女性が、密室の扉の向こうに立っていた。
長い黒髪を後ろで束ね、目元に淡い知性と優しさを湛えている。彼女の瞳はまっすぐ陸を見ていた。
「君が、AZ-100、綾瀬 陸くんだね」
「……はい、そうです」
陸の声はかすかに震えていた。女性が苦手なわけじゃない。ただ、“初対面の人”が恐ろしいのだ。相手がどんな香水をつけているか、直前に何を食べたか、どんな柔軟剤の服を着ているか——それだけで命取りになる。
だが彼女は、何も身に着けていなかった。化粧も香料も一切ない。
彼の“ルール”を完璧に守っていた。
「大学でこの研究のことを知って、どうしても君に会いたかったの。……もちろん、被験者としてじゃなくて、“人間として”」
その言葉に、陸の胸に何かがひっかかった。
「人間……として?」
「うん。100のアレルギーに囲まれても、君は“死なないでいる”。それって、ものすごく強いことだと思う」
陸は黙っていた。何も言えなかった。
村田が軽く咳払いをして、空気を整える。
「じゃあ、今日の担当は宮坂先生にお願いしようか。君も同意する?」
陸は迷った。だが、うなずいた。
楓は静かに近づくと、丁寧に滅菌手袋をはめ、陸の腕を見つめた。
その眼差しは、患者を見つめる医者のそれではなかった。
——まるで、繊細な命の光を確かめるような、やさしい眼だった。
「よろしくね、陸くん」
彼女の声が、透明な密室に優しく染み込んだ。