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100ものアレルギーを持つ男  作者: AQUARIUM【RIKUYA】
第二部:春風と柴犬の名前
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第六章「春の終わりと、柴犬の名を呼ぶ日」

 春が終わろうとしていた。


 山の桜はすっかり散り、新芽の緑が濃さを増している。

 風はまだやさしいが、午後の空気には夏の気配が混じり始めていた。


 その日、陸は朝から落ち着かない気持ちでいた。

 昨日、楓と話したこと。いちかの行動。

 そして、心の奥に芽生えた「願い」のようなものが、彼の胸をずっとくすぐっていた。


 「いちか、今日は名前をつけようか」

 散歩の準備をしながら、ぽつりとそう言うと、いちかがこちらを振り返り、小さく首をかしげた。


 「いや、君にはもう名前がある。でもさ、僕の口から……呼びたいんだよ」


 それは、些細なことのようでいて、陸にとってはとても大きなことだった。


 ***


 いちかがこの家に来て、もう三ヶ月が経っていた。

 だが、陸はまだ一度も、彼女の名前を口にしたことがなかった。


 なぜならそれは、「大切に思いすぎる」ことへの恐れだった。


 名前を呼んでしまえば、そこには“絆”が生まれる。

 絆が生まれれば、失うことが怖くなる。

 そして陸は、これまで何度も“そういう別れ”を経験してきた。


 だが今は、少し違っていた。

 この小さな命とともに生きていく覚悟が、確かに育ち始めていたのだ。


 「……よし、行こうか、いちか」


 玄関を出ると、風がやわらかく髪を撫でた。

 道の端には、まだ咲き残っていた名もない花が、朝日を浴びて輝いていた。


 歩き出してすぐ、見慣れた顔が見えた。

 楓が、白衣のまま近所のパン屋の前で何かを買っていた。


 「あっ、陸くん。おはよう」

 「おはよう。朝からパン?」


 「ここのね、米粉パンが美味しいんだよ。最近、卵と小麦抜きの新作が出てね。君にも食べられるかもと思って」


 楓は小さな紙袋を手渡しながら、いちかに向かってにっこりと微笑んだ。

 いちかは、その笑顔に応えるように嬉しそうに尻尾を振る。


 「……名前、呼んでみようと思ってるんだ」


 その言葉に、楓は目を見開いた。


 「本当に? ……それ、すごくいいと思う」

 「ちょっと、怖いけどね」


 楓は、そっと紙袋の中に手を入れ、小さな米粉クッキーを取り出した。

 「これ、いちかにあげて。新しい一歩のご褒美」


 陸は頷き、いちかの前にしゃがんだ。

 クッキーを見たいちかは、少し首を傾げ、それからゆっくりと前足を揃えて座った。

 まるで、「準備できてるよ」と言っているかのようだった。


 「——いちか」


 陸の声が、風に乗ってやさしく響いた。


 その瞬間、いちかの耳がぴくりと動いた。

 彼の顔を見上げると、目を細めて、尻尾を大きく振った。


 初めて呼ばれたその名前は、

 まるでずっと待っていた音だったかのように、彼女の心に届いた。


 「……いちか」


 もう一度呼ぶと、いちかはふわりと飛びついてきた。

 前足で陸の胸を軽く押しながら、嬉しそうに鼻を鳴らす。


 「よかったね」

 楓が、そっとその場で手を合わせるようにして微笑む。


 春の終わり、風がやさしく吹き抜ける坂道で、

 ようやく陸の心は、一つの扉を開いた。


 「いちか……これからも、よろしくな」


 彼の手が、いちかの背をゆっくりと撫でた。

 空は、もうすっかり夏の色を帯びていた。


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