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100ものアレルギーを持つ男  作者: AQUARIUM【RIKUYA】
第二部:春風と柴犬の名前
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第五章 春雷と、名前のない不安

それは、季節外れの雷雨だった。

 午後の柔らかな陽射しが消えたのは、ほんの一瞬のこと。

 空が突然怒ったように唸りはじめ、灰色の雲が空を覆いつくすと、稲妻が空を引き裂いた。


 「……嫌な予感がする」


 陸はカーテンをそっと閉めながら、胸の奥に静かに生まれた違和感を抱えていた。

 その違和感には名前がなかった。ただ、ふとした拍子に目を覚ます“心のアレルギー”のように、彼の呼吸を少しだけ重たくした。


 いちかはというと、いつものように陸の足元で眠っていたが、雷鳴が窓を揺らすたびにピクリと体を動かしていた。

 「……怖いか」

 そっと撫でると、いちかは小さく鼻を鳴らし、目を閉じたまま尻尾をちょんと動かす。


 この家での暮らしにも、ようやく慣れてきた。

 アレルギーの数値も少しずつ下がり、楓の研究チームが進めている新しい治療法にも希望が見えてきた。


 なのに。

 それでも、どこか落ち着かない——。


 ***


 「こんにちはー、いちかー! 陸くん、いる?」

 玄関から聞きなれた声が届く。


 傘を畳みながら入ってきた楓は、湿った空気の中でもいつも通りの明るい笑顔を見せていた。

 その笑顔に救われる自分がいることを、陸は最近ようやく素直に認められるようになってきた。


 「……珍しいね。雷が鳴ってる日に、わざわざ来るなんて」

 「うん、でも今日、どうしても渡したいものがあって」


 楓は鞄から小さなノートを取り出し、テーブルに置いた。

 その表紙には「観察日誌・いちか」と書かれていた。


 「これ、いちかの体調とか行動パターンを記録してたやつ。研究目的でもあるけど、もう一つね……」


 楓は少し照れたように笑った。


 「……“一緒に過ごした時間の証拠”っていうか。私、この家に来るたびに、なんだかすごく癒されてたから」


 陸はノートを手に取り、パラパラとページをめくる。

 そこにはいちかの食事量、散歩の時間、機嫌の変化——そして、彼の表情の記録までもが、丁寧な字で綴られていた。


 「……僕のことまで書いてたのか」

 「だって、いちかと君はセットだから」


 ふと、いちかがソファの下から顔を出し、楓に向かってふわりと尻尾を振った。


それを見て、楓は小さく笑った。


 「ね、やっぱり私のこと覚えてるでしょ? ちゃんと目がやさしいもん」


 いちかは小さく鼻を鳴らし、トコトコと楓の足元まで歩いてきた。雷の音に少しビクビクしながらも、彼女の手に頭をこすりつけるようにして甘える。


 「……本当に、すごいな。いちかは」


 陸がそう言うと、楓は少し真顔になって彼の目を見た。


 「すごいのは、いちかだけじゃないよ。——君もだよ、陸くん」


 その言葉に、陸は思わず目をそらした。

 自分が“すごい”なんて思ったことは一度もない。ただ毎日を、どうにか生きてきただけだ。

 アレルギーのせいで食べられないものがありすぎて、行けない場所が多すぎて、他人と触れ合うのが怖くて——それでも孤独だけは避けたくて、いちかを迎えた。


 「……僕は逃げてただけだよ。病気を言い訳にして」


 「それでも、誰かを愛そうとする気持ちは、逃げじゃない」

 楓は真っ直ぐに言った。

 「いちかのことも、私のことも、大事にしようとしてくれてる。それだけで、十分じゃない?」


 雷鳴が再び空を裂く。窓の外では稲妻が走り、雨が激しさを増した。


 ——それは、まるで心の奥底に溜まった感情をかき乱すかのように。


 「……なあ、楓」

 陸は、少し声を震わせて言った。

 「もし、このまま……アレルギーが治らなかったら、それでも君は……」


 最後まで言い切る前に、楓は陸の言葉を遮るように、小さく首を振った。

 そして、ほんの一歩、近づいた。


 「アレルギーがあるかどうかなんて、私には関係ないよ。

 それでも、あなたがちゃんと“私を見てくれる”なら、それでいい」


 その言葉は、静かに、けれど確かに、陸の心の奥に届いた。

 名もなき不安が、少しだけ、名前を持ち始めた瞬間だった。


 ——それはきっと、「愛されることへの恐れ」。

 そして同時に、「愛してはいけない」という、自分に課していた縛り。


 陸はふと、いちかを見る。

 いちかは二人の間にちょこんと座り、まるで「わかってるよ」と言いたげに、長いまつ毛の奥からまっすぐに彼を見つめていた。


 静かに、雨が弱まり始める。

 雷鳴も次第に遠ざかり、空にわずかな光が差し込んできた。


 陸の胸の奥にも、小さな光が射したようだった。


 「ありがとう、楓。——もう少し、前に進んでみる」


 楓は、やわらかく微笑んだ。

 その笑顔は、春雷の去ったあとの空のように、どこまでも澄んでいた。


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