第三章 楓の訪問と小さな奇跡
玄関のチャイムが鳴ったのは、昼少し前のことだった。
いちかが耳をぴくりと動かし、リビングのドアの前で立ち止まる。
「楓、かな」
陸がゆっくりと立ち上がり、ドアに向かうと、いちかもすぐに後ろをついてきた。
ドア越しに聞こえる足音は、どこか軽やかで、春の気配を連れてくるようだった。
「こんにちはー!」
モニター越しに映る楓は、花柄のブラウスに白いカーディガンを羽織っていた。
あいかわらず明るくて、周囲の空気をふわっと軽くするような笑顔だった。
ドアを開けた瞬間、いちかが勢いよく飛び出し、楓の足元に顔をすり寄せた。
「うわっ、いちか、元気だね!……って、あれ? 懐いてない?」
「たぶん、“味方”って分かるんだと思う」
陸は少し照れたように笑いながら、玄関の靴箱の上に消毒スプレーとウェットティッシュを差し出した。
「……これ、習慣だから」
「うん、分かってるよ。私は研究員だもん」
楓は真顔で頷き、手際よく消毒を済ませると、ゆっくりと室内に足を踏み入れた。
***
「すごく綺麗な部屋……光がたくさん入るね」
楓はリビングの窓辺に立ち、しばらく外の景色を眺めていた。
遠くに見える公園、風に揺れる草木、いちかが歩いた散歩道——すべてが、陸の日常を彩る要素になっていた。
「前の研究室よりずっといい匂いがするね」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのかな」
「もちろん。あっち、消毒薬と金属のにおいしかしなかったもん」
笑い合うふたりの間に、いちかが入り込み、ちゃっかり楓の足元で座り込んだ。
その姿があまりに自然で、まるで「三人家族」のようだった。
「今日はさ、これ持ってきたの」
楓は持参したバッグから、タッパーに入った料理を取り出した。
「これ、アレルゲン除去レシピだけど、味は自信あるよ」
「ありがとう……楓の手料理、久しぶりだ」
陸は小さく礼を言いながら、テーブルの上に布巾を敷いた。
並べられたのは、野菜たっぷりのスープ、グルテンフリーパン、低アレルゲン仕様のチキンローフ。
「なんか、ちゃんと『食卓』って感じする」
「でしょ? 一緒に食べられるって、やっぱり嬉しいもん」
静かに時間が流れる中、ふたりはゆっくりと食事を進めた。
いちかは足元で、時おり鼻を鳴らしながらふたりを見上げている。
***
食事を終え、片付けを済ませたあと、楓がぽつりと呟いた。
「ねえ……私、ちょっとだけ怖かったんだ」
「何が?」
「君がここで“ひとりでも平気になって”、私のこと、いらなくなるんじゃないかって」
陸は驚いた顔をした。
楓は、自分の言葉に戸惑いながらも、真っ直ぐな瞳で続けた。
「私、君の“弱さ”に触れることができた。でも、それって“特別”ってわけじゃなかったのかもしれないって、ふと思ってさ」
「……ちがうよ」
陸は、ゆっくりと首を振った。
彼は、言葉を慎重に選ぶように、静かに語った。
「確かに、僕はこの家で、自分を守れるようになった。
でもね、楓。守るだけじゃ、寂しいんだ。誰かと過ごして、“大丈夫だよ”って言える場所が、初めてできたんだ」
楓は目を伏せ、小さく微笑んだ。
そのとき——
ふいに、いちかが楓の膝にぴょんと前足をかけた。
そして、彼女の頬を、ぺろりと舐めた。
「あ……」
驚いた楓が目を見開いた。
「この子、今……泣いてるの分かったのかな」
「たぶん、そうだと思う」
陸は笑って、いちかの頭を優しく撫でた。
「こいつ、空気読むの得意なんだ」
楓は声を殺して笑いながら、いちかを抱き寄せた。
そして、ぽつりと呟いた。
「なんか、奇跡みたいだね……こんな時間が、あるなんて」
陸はうなずいた。
奇跡は、ある日突然やってくるんじゃない。
毎日を、恐れながらも選び続けた先に、ゆっくり育っていくものなんだ。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしていた。
その音さえも、今日の彼らにはやさしく響いた。




