第二章 朝焼けといちかの散歩道
朝の静けさを破るように、目覚まし時計が優しく鳴った。
まだ薄暗い部屋の中で、陸はそっと目を開ける。
彼の横で、いちかが静かに丸まって眠っていた。
その小さな呼吸を感じながら、陸はゆっくりと布団から起き上がる。
「おはよう、いちか」
まだ声がかすれている。陸はその声を耳に優しく響かせるように、顔を近づけた。
いちかは眠そうに目をこすり、のそのそと立ち上がる。
そして、陸の手をぺろりと舐めた。
それが、彼にとっては何よりの“朝の合図”だった。
***
リビングでコーヒーを淹れながら、陸は窓の外を見る。
まだ夜明け前の青い空に、うっすらとオレンジ色の朝焼けが広がっていた。
「今日も、いい日になるかな」
そんな希望を胸に、いちかのリードを手に取る。
「さあ、散歩に行こう」
玄関を出ると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。
まだ眠っている街の景色が、少しずつ目を覚ましはじめている。
いちかはリードを引っ張って、元気に歩き出した。
それに合わせて、陸もゆっくりと一歩一歩、外の世界に踏み出す。
***
公園の芝生には、朝露が光っていた。
小鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、風がそよぐ。
いちかは草むらに顔をうずめて、嬉しそうに鼻を動かす。
「ほら、いちか。新しい匂い、たくさんあるね」
陸の声は静かで優しかった。
かつては外の空気が怖くて、窓も開けられなかった男が、今ここにいる。
足取りはまだゆっくりだけれど、確かに前を向いている。
***
帰り道、ふたりは並んで歩いた。
陸はふと、空を見上げた。
「楓と出会ってから、世界が変わったな」
いちかは尻尾を振って答えるように、陸の手を軽く鼻で押した。
「ありがとう、いちか」
そう呟きながら、陸は小さく笑った。
新しい日々は、こうしてゆっくりと始まっていく。
坂を下った先に、小さな川沿いの遊歩道があった。
散歩コースとしては定番らしく、朝早くから犬を連れた人や、ジョギング中の若者がちらほらと歩いている。
陸は自然と歩くペースを緩めた。
他人とすれ違うとき、かつてはその空気さえも怖かった。誰かが香水をつけていたら、タバコの煙が漂ってきたら、それだけで発作を起こすことがあった。
けれど今は、いちかがそばにいる。
そのことが、不思議と彼の心を安定させてくれた。
「おはようございます」
すれ違う中年の男性が、軽く頭を下げて挨拶してくれた。
陸は少し緊張しながらも、頷き返す。
「……おはようございます」
こんな当たり前のやりとりが、自分にはなかったのだと思うと、少しだけ胸が熱くなる。
ふと、前を歩いていたいちかが立ち止まり、こちらを振り返った。
それから草の上にぺたんと座り、ぽかんとした顔で空を見上げていた。
「何か見えた?」
陸がしゃがみこむと、いちかは彼の膝の間に頭をすり寄せた。
その仕草は、まるでこう言っているかのようだった。
「焦らなくていいよ」
陸はそっと微笑み、目を閉じた。
風の音。鳥のさえずり。川の流れ。いちかの体温。
すべてが、自分に「ここにいていい」と言ってくれているような気がした。
***
家に戻るころには、太陽はすっかり昇っていた。
朝焼けは消え、空は晴れやかな青に変わっていた。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、陸はそう呟いた。
いちかがリビングのカーペットに飛び乗って、くるくる回ったあと、嬉しそうに尻尾を振る。
「今日も無事、外に出られたね」
陸は自分の胸に手を当てる。
昔のような過呼吸もない。息が、深く吸える。
「次は、誰かに“会いに行く日”を作ろうか」
それは、楓のことだった。
この家に、彼女を迎え入れる日のことを思いながら、陸は少し照れたように笑った。
一緒に散歩をして、
一緒に食卓を囲んで、
一緒に、未来を語りたい。
そう思えるようになった自分自身を、少しだけ誇らしく思う。
その足元で、いちかが「ワン」と一声、短く鳴いた。
まるでそれが、「よくできました」のご褒美のようで、陸は思わず笑ってしまった。