第10章 君の名前を呼びたい
夜、研究室の廊下に陸の足音が響いていた。
清掃のスタッフが通った直後の床に、彼は決して足を滑らせないように歩いていた。
それは彼の慎重さの表れ……というよりも、
彼の“もうひとつの秘密”のせいだった。
——陸は、極度の潔癖症だった。
アレルギーを理由に、すべてを避けてきた。
でも本当は、それだけじゃなかった。
目に見えない汚れが怖かった。菌、皮脂、埃、微粒子……それらが、自分を“汚す”気がしてならなかった。
触れることの恐怖は、アレルギーだけじゃなかったのだ。
そんな自分を、誰にも言えなかった。
***
ある日、楓が呼んだ。
「陸くん、これ、見て」
モニターには、彼の抗アレルギー薬の効果試験データが映し出されていた。
副作用は少なく、皮膚反応も減少。安定していた。
「これなら、外に出られる日も近いかもしれないね」
陸は小さく頷いた。でも、顔は晴れなかった。
楓はそんな彼を見つめたまま、ふっと声を落とした。
「ねえ、陸くん。呼んでもいい? フルネームじゃなくて、ちゃんと……名前だけで」
陸は驚いたように目を見開いた。
「……“陸”って?」
「うん。“陸”って呼びたい。私はずっと、“患者”としてじゃなくて、“君自身”を見てきたから」
陸の心が、わずかに震えた。
彼の中のもうひとつのバリア——潔癖という名の心の壁が、少しだけ揺らいだ。
「……いいよ、楓」
それは、初めて彼が自分の意思で楓を名前で呼んだ瞬間だった。
その一言に、二人の距離がほんのわずか、近づいたような気がした。
まだ触れられなくても、
“名前”で触れ合える距離がある。




