第1章 僕は生きている
午前5時。
アラームが鳴るより一瞬早く、綾瀬陸は目を覚ました。静寂の中、まずは空気清浄機の作動音を確認する。フィルターは正常。湿度は45%。アレルゲン濃度は……安全圏内。
「よし……今日も生きてる」
布団の中でそっと手を握りしめた。
これが彼の朝のルーティンだった。
陸は、生まれつき100種類以上のアレルギーを抱えて生きている。
花粉、ハウスダスト、食品添加物、乳製品、動物性たんぱく質、紫外線、特定の金属、そして極端な温度差。中には、人の汗や体温にすら反応してしまうという特殊なアレルゲンもあった。
「それ、生きてる意味あるの?」
昔、誰かに言われた言葉が、今でも胸の奥に残っている。
でも陸は、生きている。いや、生きようとしているのだ。
大学には通っている。都心にある私立の天乃大学。現在は医学部の研究施設に所属し、「免疫特異体質被験者AZ-100」として、医療研究に協力している。つまり自分のアレルギー体質が、医学の未来に活かされるかもしれないという希望だ。
「外に出よう」
彼はベッドからゆっくりと体を起こす。肌に直接触れる寝間着は、低刺激性繊維でできた特注品。マスクは常に着用。手袋と足カバーも欠かせない。玄関前の小さな除塵室で全身をくるみ、ようやく彼は「世界」と接触する準備を終える。
春の風はやさしく頬をなでた。だが陸にとってはその一吹きですら、命の脅威だ。
それでも彼は前を向いた。
「今日も、“世界”に立つ」
歩き出す陸の姿は、どこか儚く、それでいて確かな意志を帯びていた。