07 聖女 リリス・エヴァンセール
ファナの魔力判定が行われた日の夕方、王城内にある第一王子の執務室には、重苦しい沈黙が流れていた。
聖女 リリス・エヴァンセールは、豪奢な二人掛けのソファーの上で、一人身を固くしている。
第一王子のレオナルトは執務机で腕を組んで難しい顔をしていた。
「『黒曜の座』だそうだ。」
レオナルトが言った。
「『黒曜の座』?」
リリスが聞き返す。
「ああ、先ほど発表があった。エリオットの聖女の魔力評価は『黒曜の座』だそうだ。」
「初めて聞いた階級ですが、それはどういう……」
「詳しく説明はされていない。だが、判定の魔具を破壊した者は今までいない。『青玉』……いや、『緑柱の座』よりは上だと評価されるんじゃないか?」
「っっ!殿下それはっっ!!」
リリスは叫んでレオナルトを見た。が、想像していた以上に醒めた彼のまなざしに、再び身がすくむ。
「いちいち取り乱すな。そんなんでは足元をすくわれるぞ。」
「……申し訳ございません……。」
リリスは恐縮しながらソファーに座り直した。
レオナルトはため息をついて、リリスから視線を外す。
「“刺青の聖女”の力を見て、どう思った?」
「正直に申し上げますと、“恐ろしい”と思いました。あんな、人間離れした力、誰も敵わないでしょう。もし、暴走したり、反逆したら、国中の魔法使いが束になったとしても敵うかどうか……」
「そうだ、その力を、エリオットが手に入れた。奴が望むなら、王座も――いや、世界すら手に入るやもしれぬ。」
「殿下……」
リリスは痛ましげに言葉を詰まらせたが、レオナルトは虚空を睨んだまま言い放つ。
「だがしかし、王位を手に入れるのはこの私だ。あやつにそのような機会を与えるつもりはさらさらないし、その気すら起こさせない。」
レオナルトは椅子から立ち上がると、ツカツカとリリスのそばまで行き、彼女の傍らに膝まづく。その右手を取り、彼女の白魚のようなほっそりした指先に、口づけを落とした。
そのままの体勢でレオナルトは続ける。
「リリス・エヴァンセール。お前は聖女として召喚され、私はお前を選び『青玉の座』を与えた。私の聖女は、ただ強ければいいわけではない。私と共に並び立ち、王妃の宝冠を頂く覚悟をしろ。何者にも負けない、――“刺青の聖女すら凌駕する“強さ”をその身に纏え。私の期待を裏切るな。」
レオナルトは、彼女の指先に歯を立てる。鈍い痛みに、リリスはかすかに顔をしかめた。
「裏切ったり、私を失望させたら、その時は容赦はしない。」
「ひっ……」
レオナルトのあまりにも強い射貫くような眼差しに、リリスは身をすくめる。
彼女の指先に着いた歯の痕に再び唇を寄せると、レオナルトは立ち上がり彼女を解放した。
執務室のドアが閉まると、張り詰めていた気持ちが緩んで、リリスはレオナルトに噛まれた指先をさすり、思わずため息をついた。
「まあ、リリス様、ごきげんよう?」
不意に背後から声を掛けられ、リリスは表情を取り繕って振り向いた。
「エリザベータ様……こんな時間になぜこちらへ?」
「王妃陛下……伯母様と少し話しておりましたの。リリス様は……ずいぶんお疲れのようね?殿下にお叱りを受けていたのかしら?」
エリザベートはわざとらしく、口に手を当てて、彼女の顔をのぞき込む。リリスが無意識に手を握り締めたのを見逃さず、彼女はにんまりとほくそ笑んだ。
「いいえ、殿下とはお披露目の晩餐会について打ち合わせをしていただけです。」
「ふーん、そうなの?エリオット殿下の聖女が、属性判定と魔力量評価でとても優秀な成績を出したそうだから、てっきりお叱りを受けていたんだと思いましたの。王妃陛下も貴女の今後について、とても心配なさって居りましたし……」
「っ……」
リリスが言葉に詰まると、エリザベータはますます饒舌に彼女を追い詰める。
「王妃陛下は、レオナルト殿下が王太子の座に就くことを心から願われておりますから……、レオナルト殿下の聖女様といえども、王太子妃に見合わなかったり、万が一にもエリオット殿下の聖女様の方が優れているなどと言われることを、大変心配なさってましたわ。」
エリザベータは、自分の魔力量を表している紅玉の指輪を触りながら微笑んだ。
リリスは一瞬ひるんだが、先ほどレオナルトに噛まれた指先に触れ、握りしめると、自信に満ちた笑顔を作る。
「王妃陛下の気を揉ませてしまうとは、大変申し訳ないことをいたしました。でも、ご心配には及びません。レオナルト殿下にも、殿下のパートナーとして一層励むよう、激励されていたところでございますわ。」
「そうですの?ふふ、晩餐会、楽しみにさせていただくわ。それでは、ごきげんよう。」
去ってゆくエリザベータを、彼女が角を曲がって、見えなくなるまで見送ると、リリスはサッと微笑を消した。
王宮内に用意された客室に戻ると、リリスはベッドに身を投げた。
聖女召喚の儀の直後、リリスは王宮に滞在するように言われ、この客室を与えられた。広さは、伯爵邸の自室より広く、調度品も豪華である。レオナルトと正式に契約が成れば、新しく王子妃の居室が与えられ、そちらに移るとも聞いている。
枕に顔をうずめると、清潔な、でも嗅ぎなれない香りがした。
急に心細くなった。
聖女に選ばれるなんて、思っていなかった。だから、選定の儀の朝だって、普通に目覚めて、身支度をして、両親と神殿に行った。兄とは玄関で挨拶をしたのが最後だ。たぶん伯爵邸には、もう帰れないのだと思う。
そう思うと、無性に寂しくなった。
伯爵家から一人だけ連れてくることを許された、侍女のミーナが心配そうにのぞき込む。彼女はリリスの乳母の娘で、乳姉妹だった。
「お嬢様、大丈夫ですか?色々とお辛いでしょう……」
「ええ、でも当然のことだわ。」
リリスは、寝返りを打って、ミーナを見上げる。
「選ばれた時、驚いたけど本当にうれしかったし、誇らしかった。エリザベータ様に対して、優越感を抱いてしまったのも本当。だから、罰が当たってしまったのかしら……」
リリスは一旦押し黙って、身を起こし、ベッドの縁に腰かけた。
「判定の魔具が緑色になったときから……全てがおかしくなってしまった。」
リリスは、うつむいて、絞り出すようにつぶやく。
「世界を渡っても、エリザベータ様よりも魔力が低いなんて……その上、何?エリオット殿下の聖女は全属性持ちで、魔力は測定不能……なんで、私が聖女に選ばれたのかしら……もう私の心は折れそうよ……」
「お嬢様……」
ミーナはリリスの横に座ると、彼女の肩を抱いた。
「でもお嬢様、レオナルト殿下は、魔力評価を偽ってまでも、お嬢様をそばに置く覚悟をお決めになったではないですか。聖女に召喚されたのは、ほかでもないお嬢様なのです。エリザベータ様や、刺青の聖女などに惑わされてはなりません。レオナルト殿下を信じて、殿下の期待に応えましょう。愚痴でしたら、このミーナが、いくらでも聞きますから。ね?」
「ミーナ……」
リリスは、ミーナの胸に顔をうずめる。ミーナは、リリスの背中をリズムよく軽くたたいた。
「大丈夫ですよ。お嬢様ならやれます。気高さも、優しさも、美しさも、うちのお嬢様に勝る御令嬢など、この王国に一人もおりません。ミーナが保証します。」
「う……うぅ……ぅぅ……」
嗚咽を漏らすリリスの薄い肩を、ミーナはぎゅっと抱きしめた。
次の日の朝、客室を出て颯爽と歩くリリスは堂々としていて、その目に迷いはなかった。