最終話 トカプノヌプクシル
暖かい日差しと、小鳥のさえずり。
柔らかい風と、草木の香り――
彼女はその中で、ゆっくりと目を覚ました。
空はどこまでも青く、春の陽気なのに、どこにも太陽が見えない。
では、この日差しはどこから来るのだろう?
そう思って空を見上げても、やはりわからなかった。
ふと、自分が“みっしりとした温かいもの”を枕にして寝ていたことに気づき、
彼女はゆっくりと身を起こす。
「……目が覚めた?」
隣に寝そべっていた美しい人が、腕を枕に貸したまま、優しく問いかけてきた。
「……ここは……トカプノヌプクシル……でしょうか」
口をついて出たその言葉は、古より伝わる楽園の名。
今までいた世界とは違う場所だと、彼女は直感的に思った。
「そうかもしれないね」
美しい人は、彼女の髪をそっと撫でながら、そう応えた。
そしてその時、彼女は初めて彼の顔をまじまじと見つめた。
太陽の光を集めたような髪、天空の蒼を映した瞳、端正な顔立ち――
「……エル?」
「そうだね」
彼は微笑む。
「君が目覚めるのを、ずっと待っていたんだ。君の寝顔を眺めながらね」
「……随分、待たせてしまったかしら?」
彼女が申し訳なさそうに尋ねると、彼は首を横に振り、
穏やかで優しい眼差しを返した。
「いや、大して待ってはいないよ。
ここでは――時間は、無意味だからね」
「……そう、でしたね。
あなたと出会い、愛して、愛されて――選んで、ここに来た。
今、振り返ると……まるで、長い幸せな夢を見ていたようでした」
彼女は、愛しい人の頬に手を伸ばし、その輪郭をそっとなぞる。
そこに在ることを、確かめるように。
「――ここには僕たちしかいない。
これから、ずっとここで、僕たちは愛し合ってゆくんだよ」
彼はそう言って、微笑んだ。
「僕たちの営みが、世界に循環をもたらす。
焦る必要はないさ。こうやって触れ合うだけでも、世界には魔力が行き渡る。
……まあ、もっと濃密な触れ合いだって、大歓迎だけどね?」
イタズラっぽく笑った彼は、彼女を抱きしめ、ふたりで再び草の上へと身を横たえる。
軽くキスをひとつ。やわらかい風とともに、花の香りが舞った。
――ああ、やっぱり彼だ。
彼女は、よく知っている体温に包まれて、
ほっと息を吐きながら、その胸の中に身を委ねていった。
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「メルは“夜の祭殿”に入るの、初めてなの! ワクワクしちゃうわ!
お父様とお母様も、ここで神様に初めてお会いになったのでしょう?」
「そうね、でもメルティーネ。今日はお兄様たちの大切な日なのよ。
あまり大きな声を出したら、神様たちが驚いてしまうわ。」
ちょこまかと歩く末娘の後を、侍女たちが右往左往しながら追いかけていく。
その様子に苦笑しつつ、リリスは柔らかく娘をたしなめた。
――神聖歴二十年。旧王国暦でいえば八〇七年。
拝謁王レオナルトの治世は、すでに十余年を数えていた。
その王子たちが、ついに十八歳を迎えた今年。
大陸中の注目が集まる中、第一王子リュフェイルと、第二王子アリステルは――
新たな神のもと、聖女召喚の儀に臨むことを望んだ。
レオナルトとリリスは、多くの子をもうけた。
五人の王子と、二人の王女――恵まれた子宝に、王国中が歓喜に沸いたという。
なかでも五王子はいずれも、聖女召喚の儀を自ら望み、
この国は今後も変わらず、聖女を迎える儀式を継承していくこととなった。
それもこれも、父王と母王妃の仲睦まじい姿を見て育った彼らにとって、
“聖女召喚”というものが、ただの制度ではなく――
愛の物語の始まりとして、憧れの対象となっていたからだ。
やがて一同は、夜の祭殿へとたどり着く。
“夜の祭殿”には、あの日と変わらず、内容までは聞き取れないものの――
まるで男女が囁き合うような、柔らかな声音が絶えず響いていた。
それは今や“神の睦言”と呼ばれ、神域の奇跡として深く信仰されている。
神像もまた変わらず――
女神は男神と向かい合い、額を寄せ、まぶたを閉じたまま、ほのかな微笑を浮かべていた。
その変わらぬ光景に、リリスは胸を締めつけられるような想いを抱いた。
「お母さま、泣いてるの?」
メルティーネは、母の頬を伝う涙に気づいて、目を丸くして尋ねた。
「だめね、年を重ねると、涙もろくなってしまって……
ここには、何度来ても胸が痛むの。
メル、この方々は、尊い神様であると同時に――
お父様とお母様にとって、とても大切な方々でもあったのよ。
だから、誇らしい気持ちにもなるけれど……もう、二度とお話しできないのが、悲しいの。」
「ふーん……」
まだ小さなメルティーネには、すべてを理解するには難しかったのかもしれない。
彼女は神像を見つめながら、小さく首をかしげていた。
神像の前にはすでに、召喚の魔法陣が準備されていた。
祭壇を囲むように立つ高位神官たちは、手にした杖を静かに構え、呪文の詠唱を開始する刻を待っている。
第一王子リュフェイルと、第二王子アリステルは、父王に恭しく一礼し、参列者の環から離れて前方へと歩み出た。
かつての召喚の儀は中央神殿にて行われ、貴族家門から選ばれた令嬢たちが集められていた。
しかし、女神の時代が変わった今、儀式はこの“夜の祭殿”にて執り行われることとなり、令嬢たちはそれぞれの邸宅に控えている。
彼女たちはきっと、いまかいまかと、召喚の呼び声を待ち構えていることだろう。
「静粛に――。
これより、リューセイオン王国第三十代拝謁王の御子、
第一王子リュフェイル・ヴァルトリア殿下ならびに、
第二王子アリステル・ヴァルトリア殿下による、聖女召喚の儀を執り行う」
朗々と響いたのは、大神官セルジュの声である。
かつて一人の王子に仕えた侍従は、新たな神が誕生して間もなく出家し、神に身を捧げる道を選んだ。
今では、“最も忠実なる神の僕”として、誰よりも厳粛にこの儀式を司っていた。
やがて大神官が、聖魔法による祝詞を唱え始める。
それに合わせて神官たちが、一斉に魔力を魔法陣へと注ぎ込んだ。
リュフェイルとアリステルの両王子は、互いに頷き合うと、同時に短剣を抜き、自らの掌を切り裂く。
流れ出た血は、定められた場所へと滴り、魔法陣へと吸い込まれてゆく。
それは、古の時代より変わらぬ、聖女召喚の証――。
魔法陣は静かに光を帯び、瞬く間にその輝きは広間全体を包み込んだ。
やがて、まばゆい光が静かに収まると、二人の王子の前に、それぞれ柔らかな人影が浮かび上がってきた。
最初に声を上げたのは、第一王子リュフェイルだった。
「――ああ、セレナリア。やはり君だったのだな!」
彼は迷いなく一歩踏み出すと、感極まったように続けた。
「僕はずっと信じていた。君こそ、正当なる妻として神に選ばれるはずだと。……やはり神は、我らを見守っておられた!」
リュフェイルはそのまま彼女を抱きしめ、神への深い感謝を胸に囁いた。
セレナリア――彼女は、公爵家に生まれ、幼い頃より王子とひそかに愛を育んできた麗しき令嬢であった。その絆は誰にも明かされぬまま長く続き、今、神の前で結実したのだった。
第二王子アリステルもまた、自らの前に現れた令嬢の姿に、一瞬目を見開いたかと思うと、驚愕のままに彼女を強く抱きしめた。
そして、まるで長年の恋人たちがようやく再会を果たしたかのように、ふたりは激しい口づけを交わす。
その名は――ステラ・ヴォルステッド。侯爵家の令嬢である。
「……また君に会えるなんて、まるで奇跡だよ。
今度はもう、離れなくていい。ずっと一緒に生きていける……ああ、なんて俺は、幸せ者なんだろう……」
アリステルは涙をこぼしながら、いつまでも彼女を抱きしめていた。
彼女もまた、彼を決して離すまいと、その腕にそっと、しかし確かに力を込めていた。
己の聖女が、それぞれにとっての運命の伴侶であったと、誰の目にも明らかな光景。
それを目の当たりにした王子たちの兄弟や、神官たちは、胸を熱くしながら喜びの声をあげた。
レオナルトとリリスは、肩を寄せ合い、静かに微笑んでいた。
――自分たちの決断と喪失が、それでも次代に幸せを繋いでゆくのを見守るように。
新たな世代の愛と契約の始まりを、神々の眠る夜の祭殿が、厳かに祝福していた。
どんどはれ!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
姉妹作『叛逆の聖女と契約の王子』では、前々世代の顛末や、この最終話の舞台裏(?)が描かれています。ご興味のある方は、シリーズでまとめてあるので、ぜひそちらも読んでみてください。アナスタシアが元気いっぱい暴れまわっています。
https://ncode.syosetu.com/n4555kl/
本作は、次回更新の『あとがき』をもって完結としたいと思います。
あとがきでは、練りに練った設定を語り倒す予定です!書くぞー!!需要?知らん!!
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
(★やブクマとかすごい嬉しかったし、もうpv延びるだけで、毎日浮かれ悦んでおりましたww)
また次作も、お付き合頂ければ幸いです。




