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刺青の聖女と契約の王子  作者: じょーもん
第5章

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65 神へと至る花

 夜の神殿へと至る道は、明かりに彩られ、壁は煌めき、床は踏むたびに淡く発光して足元を照らした。

 リリスが転ばぬよう、レオナルトが先に立って手を引く。ヴェイル、ミーナ、セルジュ、そして数名の騎士たちが静かに後に続いた。

 通路には、新たな女神の魔力の気配が、満ち満ちていた。


 やがて一行は、危なげなく広間へとたどり着く。


 広間の壁には一面に――ファナの身体に刻まれていた刺青に酷似した、渦巻く文様が広がっていた。

 文様はまるで語りかけるように、あちこちで不規則な明滅を繰り返している。それはまるで、夜空の星々の瞬きのようにも見えた。


 広間の中央。

 真円の月を模したシャンデリアの下に、女神はいた。


 女神は男神と向かい合い、額を合わせ、まぶたを閉じたまま、互いに微笑みを浮かべている。

 胸元で固く両手を結び合わせ、腰から下は既に一体となり、どちらのものともつかぬ姿となっていた。

 その質感は雪花石膏(アラバスター)や白翡翠を思わせ、内側から淡い光を放っている。


 もはや人ではない――物質へと変貌したその姿は、一目でそれと知れた。

 彫像のようでありながら、着衣のひだは今にも風に吹かれて揺れそうで、

 まつ毛まで精緻に刻まれた顔は、今にもまぶたを開けそうにすら見えた。だが彼らが、もう二度と動き出すことはないのだと、誰の目にも明らかだった。


「ファナ様……」


「エリオット……」


 覚悟はしていた。

 それでもなお、目の当たりにした「彼らの選んだ現実」は、あまりにも残酷で、言葉を奪った。

 レオナルトとリリスが沈黙するなか、後方でセルジュが崩れ落ちる。

 音もなく床に顔を伏せ、嗚咽すら声にならないまま、彼は泣いた。

 本当に――主人を喪ったのだと、初めて自覚したその瞬間だった。


「エリオット殿下は――ファナ様と共に、逝けたのですね……」


 リリスが涙をぬぐいながら、そっと言葉を落とした。


「ああ。奴は、やりきった。望みどおり、ファナ聖女との“永遠”を手に入れたのだ……」


 レオナルトは一歩、女神像へと近づいた。

 静かに外套の留め具を外し、それをヴェイルへと預ける。

 続いて帯剣の留め金に手をかけ、静かに外して床に置くと、彼はそのまま、膝をついた。


 リリスもまた、それに倣う。

 聖杖を脇に伏せ、衣の裾を整えて、ゆっくりと膝をついた。


 ヴェイルも、ミーナも、騎士たちもまた――静かに、順に膝を折る。


 静寂が、場を包んだ。

 ただ一つ、セルジュの押し殺すような嗚咽だけが、広間に微かに響いていた。


「さあ、皆の者――新しき神の降臨を、祝おう。

 我らが最初の祈りを捧げ、永久(とわ)なる弥栄(いやさか)を讃えよう。

 この記念すべき瞬間に立ち会いし我らの名を刻み、

 世界が祝福を得たことを、すべての者に告げよう。」


 レオナルトは朗々と響く声でそう宣言し、

 誰よりも先に、指を組み合わせ、目を閉じて祈りを捧げた。


(――エリオット……もう、お前を“弟”とは呼べぬのだな。

 だが、約束する。この国を、聖女召喚制度を、より良きものへと変えてゆく。

 お前たちを讃える声を、永久(とこしえ)に絶やさぬように。

 この祈りとともに、王の道を継ごう……)


 レオナルトに続き、皆も静かに手を組み、(こうべ)を垂れ、それぞれの胸の内に祈りを捧げた。


 ――その時だった。


 女神と男神の像から、ふわりと放たれた。

 目に見え、肌で感じられるほど濃密な、金色の魔力の波が、静かに広がっていく。


 レオナルトの頬を優しく撫で、

 リリスの髪をそよがせ、

 セルジュの涙を、そっと吹き飛ばした。


 魔力の波は、祭殿を越え、原初の森へ。

 王国全体へ。

 さらにその先の大陸全土へと、音もなく広がってゆく。


 そして広間には、先ほどまでとは異なる温かな光が満ち始めた。

 まるでハープのような――

 あるいは、人の声のような――

 不思議な音色が空間に響きはじめる。


 それは高音と低音が互いに掛け合い、やがて調和し、

 まるで男女が語らい合っているかのような旋律となって、

 あたかも新たな神の「睦言」が、世界にこだましているかのようだった。


「……我々の祈りが――新しき神を、目覚めさせたのだな……」


 レオナルトのつぶやきが、誰にともなく、広く静かに響いた。


「レオさま、手のひらを……術環が――!」


 リリスが、自身の手のひらを見つめたまま、息を呑むように声を上げた。


 その声に促されるように、広間にいた者たちも次々と自分の掌を見つめ――

 そして、まるで時が止まったかのように、動きを忘れていた


 かつて刻まれた“女神の構文”は、一度刻まれたら変わることはないとされていた。

 それが今――確かに、書き換わっている。


 新たな紋様は、見覚えのないもの。

 だがそれは、広間の中央に立つ神像――女神と男神の身体が融合しているあたりに、

 輝くように刻まれていた紋章とまったく同じだった。


 レオナルトは試しに、右手をわずかに持ち上げ、魔力を練る。


 ――ぽう、と。

 掌から浮かび上がった小さな炎に呼応するように、神像の紋章が、かすかに明滅した。


 誰かが小さく息を呑んだ。

 世界が、本当に――新しい神のものに書き換えられたのだという実感が、肌に焼きつく。


「新しき神は――引き続き、我々に恩寵をもたらしてくれるのだな。贄なしに……」


 レオナルトは静かに拳を握り締め、目を閉じた。

 その頬を、熱い涙が一筋、静かに伝った。





 +++++



 黄金の波は、祭殿の上層にも即座に届いた。

 いにしえの戦士たちの遺骨を静かに通り抜け、

 長き時を眠り続けていた、哀しき聖女の亡骸を――そっと、包み込む。


 空間に満ちていた古い術式が、静かに塗り替えられてゆく。

 時を止めていた術が解除されると、遺体は微かに光を帯び、

 やがて――煌めく塵となって、風に舞うように還っていった。


 そして、最後の贄として囚われていたリゼリヤーナにも、別れの時が訪れていた。


「アレクシス様……私、少し変わりすぎてしまったようですわ。

 そろそろ、おいとまの時間のようです……」


 おどけてみせながらも、どこか寂しげに、リゼリヤーナは彼に微笑んだ。

 その笑みは、かつての無邪気な聖女のものでも、囚われた“装置”のものでもない――

 彼女が彼女として生きた、たったひとつの顔だった。


「リズ……また私を、置いてゆくのか……

 また、私を……ひとりに――」


 アレクシスは、その懊悩を隠そうともしなかった。

 リゼリヤーナを諦めて以来、ひたすら押し殺してきた感情が、

 このときばかりは、もう堰を切ったように表情にあふれ出していた。


「そんなに……想っていただけただけで、私は幸せでございました。

 また、次の世で――お会いしましょう。

 私たちが“運命”ならば、(まみ)えるその日も、遠くはございませんわ」


「嫌だ……リズ。やっと逢えたのに――」


「……どうか、笑顔で送り出してくださいませ。

 御継嗣(けいし)さまに(つつが)なく王位を継がせ、可愛いお孫さまのお顔を見られたその時、

 その時こそ、私を追ってきてよいと――そう、赦して差しあげますわ」


 リゼリヤーナはそう言って、くすりと笑った。

 その笑みは、昔の彼女そのままの、あたたかく、やさしいものであった。


 やがて彼女は、そっと両手を伸ばし、アレクシスの頬を両側から包み込む。

 ひととき、時が止まったようだった。


 そして――


 そのまま、リゼリヤーナの身体は、光の粒へと変わってゆく。

 無数の小さな光が、空気の中へ、静かに、やわらかく、拡散していった。


 アレクシスの手は、何も掴めなかった。

 ただその場に取り残されたまま、彼は目を閉じて、そっと唇を噛んだ。



「陛下……」


 不意に、アレクシスを呼ぶ声が聞こえた。


 振り返ると、広間の入り口に王妃クラリーチェと大神官セラフィオスが、並んで立っていた。


 膝をつき、泣き濡れたままの王の姿に、クラリーチェは息を呑み、

 すぐに表情を引き締めて駆け寄ると、その肩をそっと抱きしめた。


「……いかがなさいましたか、陛下?」


 問いかける声は、落ち着いてはいたが、明らかに動揺がにじんでいた。

 アレクシスは所在なげに視線をさまよわせ、無防備に胸の内を吐露する。


「リズが……逝ってしまった。

 私はまた、聖女を失ってしまったのだ……もう、私は……」


 彼は顔を手で覆い、俯いてしまった。


 その言葉を聞いたクラリーチェは、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、

 何かに深く傷ついたような表情を見せた。

 けれどすぐに、慈愛に満ちた笑みを浮かべ直し、

 そのまま静かに、王を抱き寄せる。


「陛下……私では足りませぬでしょうが、

 それでも、私はいつまでも陛下のお傍におります。

 今までも……そして、これからも」


 クラリーチェの声を、アレクシスは最初、身を固くして聞いていた。

 だが、やがてゆっくりとうなずくと、黙って彼女の手を取った。


「すまぬ……私としたことが、こんな姿を見せてしまっては……

 さぞや、おまえも……傷ついたであろうに」


 アレクシスが心底申し訳なさそうに言うと、クラリーチェはふっと鷹揚に微笑んだ。


「――私が聖女に敵わぬことなど、重々承知しております。

 それでも、私とて、陛下をお慕いする気持ちに、

 一片の嘘も偽りもございませんわ」


 アレクシスは、しばらく何も言えなかった。

 ただ、手の中のクラリーチェの手が、こんなにも温かいことに――今さらながら気づき、

 少しだけ、指に力をこめた。


「……すまぬ、クラリーチェ。

 おまえに、王妃としての務め以上の苦しみを背負わせてしまった。

 この国のためと信じ、おまえの心を――ずっと、置き去りにしてきた。

 気づかぬふりをしていたのだ……」


 言葉に詰まりながらも、アレクシスは真正面から彼女を見つめる。

 その瞳には、懺悔と共に、かすかな光が宿っていた。


「……リズを送ったこの手で、おまえに触れることを――

 今の私は、まだ、赦せぬ」


 低く絞り出されたその声に、クラリーチェは小さく瞳を見開いた。


「だが……感謝している。

 何も言わずに、そばにいてくれたおまえに。

 私には、過ぎた王妃だった。

 ……それだけは、今、伝えておかねばならぬと思った」


 クラリーチェは、そっと微笑んだ。

 ほんの少し、目元に涙をにじませながら。


「……やっと、言ってくださいましたのね。

 そのお言葉を聞けただけで、十分でございますわ」




 王と王妃の語らいが始まった頃、

 セラフィオスはそっと二人の脇を抜け、

 白き蝶に導かれるように――夜の神殿へと続く通路へ、音もなく潜っていった。


 やがて至ったのは、静まり返った広間。


 そこには、新たに祀られた女神と男神の神像、

 そしてその御前にひざまずき、祈りを捧げる新しき王と聖女――

 レオナルトとリリス、そして彼らと奇跡の瞬間を共にした者たちの、静かな背中があった。


 額を寄せ合い、微笑む神像の顔には、確かに――見覚えがある。


(……ああ。ついに、本懐を遂げられましたのですな)


 もはやその名を口にすることすら憚られる、

 親しき二人へ向けて、セラフィオスは胸の内に深く祈りを捧げた。


 そして、広間の静寂を乱さぬように声を整え、ゆっくりと口を開く。


「レオナルト殿下、リリス聖女。

 新しき神をお迎えになられましたこと、

 心よりお慶び申し上げます。

 ……このわたくしども神殿は、

 女神が男神を迎え、めでたく“神婚”が成ったことを、

 ここに正式に宣言しても、よろしいでしょうか。

 この地を――双身一柱(そうしんいっちゅう)の神の降臨の地として、

 王国における最も重要なる聖地と定めたく存じます」


 セラフィオスの声に応えるように、

 レオナルトとリリスは静かに立ち上がり、肩を寄せ合う。


「――ああ、私もここに宣言する。

 王太子レオナルト・ヴァルトリアの名において、

 我がリューセイオン王国は、今この時より、

 この双身の神を国祀神(こくししん)と定め、

 永久(とこしえ)の祈りを捧げることを、ここに誓う」


 その声に呼応するかのように、光の花びらと蝶が、

 花吹雪のように、天よりふわりと舞い降りた。


 祝福のように、奇跡のように――

 空間を満たす光に包まれながら、

 リリスは愛しい夫の腕の中で、

 その光景を、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。


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