65 神へと至る花
夜の神殿へと至る道は、明かりに彩られ、壁は煌めき、床は踏むたびに淡く発光して足元を照らした。
リリスが転ばぬよう、レオナルトが先に立って手を引く。ヴェイル、ミーナ、セルジュ、そして数名の騎士たちが静かに後に続いた。
通路には、新たな女神の魔力の気配が、満ち満ちていた。
やがて一行は、危なげなく広間へとたどり着く。
広間の壁には一面に――ファナの身体に刻まれていた刺青に酷似した、渦巻く文様が広がっていた。
文様はまるで語りかけるように、あちこちで不規則な明滅を繰り返している。それはまるで、夜空の星々の瞬きのようにも見えた。
広間の中央。
真円の月を模したシャンデリアの下に、女神はいた。
女神は男神と向かい合い、額を合わせ、まぶたを閉じたまま、互いに微笑みを浮かべている。
胸元で固く両手を結び合わせ、腰から下は既に一体となり、どちらのものともつかぬ姿となっていた。
その質感は雪花石膏や白翡翠を思わせ、内側から淡い光を放っている。
もはや人ではない――物質へと変貌したその姿は、一目でそれと知れた。
彫像のようでありながら、着衣のひだは今にも風に吹かれて揺れそうで、
まつ毛まで精緻に刻まれた顔は、今にもまぶたを開けそうにすら見えた。だが彼らが、もう二度と動き出すことはないのだと、誰の目にも明らかだった。
「ファナ様……」
「エリオット……」
覚悟はしていた。
それでもなお、目の当たりにした「彼らの選んだ現実」は、あまりにも残酷で、言葉を奪った。
レオナルトとリリスが沈黙するなか、後方でセルジュが崩れ落ちる。
音もなく床に顔を伏せ、嗚咽すら声にならないまま、彼は泣いた。
本当に――主人を喪ったのだと、初めて自覚したその瞬間だった。
「エリオット殿下は――ファナ様と共に、逝けたのですね……」
リリスが涙をぬぐいながら、そっと言葉を落とした。
「ああ。奴は、やりきった。望みどおり、ファナ聖女との“永遠”を手に入れたのだ……」
レオナルトは一歩、女神像へと近づいた。
静かに外套の留め具を外し、それをヴェイルへと預ける。
続いて帯剣の留め金に手をかけ、静かに外して床に置くと、彼はそのまま、膝をついた。
リリスもまた、それに倣う。
聖杖を脇に伏せ、衣の裾を整えて、ゆっくりと膝をついた。
ヴェイルも、ミーナも、騎士たちもまた――静かに、順に膝を折る。
静寂が、場を包んだ。
ただ一つ、セルジュの押し殺すような嗚咽だけが、広間に微かに響いていた。
「さあ、皆の者――新しき神の降臨を、祝おう。
我らが最初の祈りを捧げ、永久なる弥栄を讃えよう。
この記念すべき瞬間に立ち会いし我らの名を刻み、
世界が祝福を得たことを、すべての者に告げよう。」
レオナルトは朗々と響く声でそう宣言し、
誰よりも先に、指を組み合わせ、目を閉じて祈りを捧げた。
(――エリオット……もう、お前を“弟”とは呼べぬのだな。
だが、約束する。この国を、聖女召喚制度を、より良きものへと変えてゆく。
お前たちを讃える声を、永久に絶やさぬように。
この祈りとともに、王の道を継ごう……)
レオナルトに続き、皆も静かに手を組み、頭を垂れ、それぞれの胸の内に祈りを捧げた。
――その時だった。
女神と男神の像から、ふわりと放たれた。
目に見え、肌で感じられるほど濃密な、金色の魔力の波が、静かに広がっていく。
レオナルトの頬を優しく撫で、
リリスの髪をそよがせ、
セルジュの涙を、そっと吹き飛ばした。
魔力の波は、祭殿を越え、原初の森へ。
王国全体へ。
さらにその先の大陸全土へと、音もなく広がってゆく。
そして広間には、先ほどまでとは異なる温かな光が満ち始めた。
まるでハープのような――
あるいは、人の声のような――
不思議な音色が空間に響きはじめる。
それは高音と低音が互いに掛け合い、やがて調和し、
まるで男女が語らい合っているかのような旋律となって、
あたかも新たな神の「睦言」が、世界にこだましているかのようだった。
「……我々の祈りが――新しき神を、目覚めさせたのだな……」
レオナルトのつぶやきが、誰にともなく、広く静かに響いた。
「レオさま、手のひらを……術環が――!」
リリスが、自身の手のひらを見つめたまま、息を呑むように声を上げた。
その声に促されるように、広間にいた者たちも次々と自分の掌を見つめ――
そして、まるで時が止まったかのように、動きを忘れていた
かつて刻まれた“女神の構文”は、一度刻まれたら変わることはないとされていた。
それが今――確かに、書き換わっている。
新たな紋様は、見覚えのないもの。
だがそれは、広間の中央に立つ神像――女神と男神の身体が融合しているあたりに、
輝くように刻まれていた紋章とまったく同じだった。
レオナルトは試しに、右手をわずかに持ち上げ、魔力を練る。
――ぽう、と。
掌から浮かび上がった小さな炎に呼応するように、神像の紋章が、かすかに明滅した。
誰かが小さく息を呑んだ。
世界が、本当に――新しい神のものに書き換えられたのだという実感が、肌に焼きつく。
「新しき神は――引き続き、我々に恩寵をもたらしてくれるのだな。贄なしに……」
レオナルトは静かに拳を握り締め、目を閉じた。
その頬を、熱い涙が一筋、静かに伝った。
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黄金の波は、祭殿の上層にも即座に届いた。
いにしえの戦士たちの遺骨を静かに通り抜け、
長き時を眠り続けていた、哀しき聖女の亡骸を――そっと、包み込む。
空間に満ちていた古い術式が、静かに塗り替えられてゆく。
時を止めていた術が解除されると、遺体は微かに光を帯び、
やがて――煌めく塵となって、風に舞うように還っていった。
そして、最後の贄として囚われていたリゼリヤーナにも、別れの時が訪れていた。
「アレクシス様……私、少し変わりすぎてしまったようですわ。
そろそろ、おいとまの時間のようです……」
おどけてみせながらも、どこか寂しげに、リゼリヤーナは彼に微笑んだ。
その笑みは、かつての無邪気な聖女のものでも、囚われた“装置”のものでもない――
彼女が彼女として生きた、たったひとつの顔だった。
「リズ……また私を、置いてゆくのか……
また、私を……ひとりに――」
アレクシスは、その懊悩を隠そうともしなかった。
リゼリヤーナを諦めて以来、ひたすら押し殺してきた感情が、
このときばかりは、もう堰を切ったように表情にあふれ出していた。
「そんなに……想っていただけただけで、私は幸せでございました。
また、次の世で――お会いしましょう。
私たちが“運命”ならば、見えるその日も、遠くはございませんわ」
「嫌だ……リズ。やっと逢えたのに――」
「……どうか、笑顔で送り出してくださいませ。
御継嗣さまに恙なく王位を継がせ、可愛いお孫さまのお顔を見られたその時、
その時こそ、私を追ってきてよいと――そう、赦して差しあげますわ」
リゼリヤーナはそう言って、くすりと笑った。
その笑みは、昔の彼女そのままの、あたたかく、やさしいものであった。
やがて彼女は、そっと両手を伸ばし、アレクシスの頬を両側から包み込む。
ひととき、時が止まったようだった。
そして――
そのまま、リゼリヤーナの身体は、光の粒へと変わってゆく。
無数の小さな光が、空気の中へ、静かに、やわらかく、拡散していった。
アレクシスの手は、何も掴めなかった。
ただその場に取り残されたまま、彼は目を閉じて、そっと唇を噛んだ。
「陛下……」
不意に、アレクシスを呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、広間の入り口に王妃クラリーチェと大神官セラフィオスが、並んで立っていた。
膝をつき、泣き濡れたままの王の姿に、クラリーチェは息を呑み、
すぐに表情を引き締めて駆け寄ると、その肩をそっと抱きしめた。
「……いかがなさいましたか、陛下?」
問いかける声は、落ち着いてはいたが、明らかに動揺がにじんでいた。
アレクシスは所在なげに視線をさまよわせ、無防備に胸の内を吐露する。
「リズが……逝ってしまった。
私はまた、聖女を失ってしまったのだ……もう、私は……」
彼は顔を手で覆い、俯いてしまった。
その言葉を聞いたクラリーチェは、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、
何かに深く傷ついたような表情を見せた。
けれどすぐに、慈愛に満ちた笑みを浮かべ直し、
そのまま静かに、王を抱き寄せる。
「陛下……私では足りませぬでしょうが、
それでも、私はいつまでも陛下のお傍におります。
今までも……そして、これからも」
クラリーチェの声を、アレクシスは最初、身を固くして聞いていた。
だが、やがてゆっくりとうなずくと、黙って彼女の手を取った。
「すまぬ……私としたことが、こんな姿を見せてしまっては……
さぞや、おまえも……傷ついたであろうに」
アレクシスが心底申し訳なさそうに言うと、クラリーチェはふっと鷹揚に微笑んだ。
「――私が聖女に敵わぬことなど、重々承知しております。
それでも、私とて、陛下をお慕いする気持ちに、
一片の嘘も偽りもございませんわ」
アレクシスは、しばらく何も言えなかった。
ただ、手の中のクラリーチェの手が、こんなにも温かいことに――今さらながら気づき、
少しだけ、指に力をこめた。
「……すまぬ、クラリーチェ。
おまえに、王妃としての務め以上の苦しみを背負わせてしまった。
この国のためと信じ、おまえの心を――ずっと、置き去りにしてきた。
気づかぬふりをしていたのだ……」
言葉に詰まりながらも、アレクシスは真正面から彼女を見つめる。
その瞳には、懺悔と共に、かすかな光が宿っていた。
「……リズを送ったこの手で、おまえに触れることを――
今の私は、まだ、赦せぬ」
低く絞り出されたその声に、クラリーチェは小さく瞳を見開いた。
「だが……感謝している。
何も言わずに、そばにいてくれたおまえに。
私には、過ぎた王妃だった。
……それだけは、今、伝えておかねばならぬと思った」
クラリーチェは、そっと微笑んだ。
ほんの少し、目元に涙をにじませながら。
「……やっと、言ってくださいましたのね。
そのお言葉を聞けただけで、十分でございますわ」
王と王妃の語らいが始まった頃、
セラフィオスはそっと二人の脇を抜け、
白き蝶に導かれるように――夜の神殿へと続く通路へ、音もなく潜っていった。
やがて至ったのは、静まり返った広間。
そこには、新たに祀られた女神と男神の神像、
そしてその御前にひざまずき、祈りを捧げる新しき王と聖女――
レオナルトとリリス、そして彼らと奇跡の瞬間を共にした者たちの、静かな背中があった。
額を寄せ合い、微笑む神像の顔には、確かに――見覚えがある。
(……ああ。ついに、本懐を遂げられましたのですな)
もはやその名を口にすることすら憚られる、
親しき二人へ向けて、セラフィオスは胸の内に深く祈りを捧げた。
そして、広間の静寂を乱さぬように声を整え、ゆっくりと口を開く。
「レオナルト殿下、リリス聖女。
新しき神をお迎えになられましたこと、
心よりお慶び申し上げます。
……このわたくしども神殿は、
女神が男神を迎え、めでたく“神婚”が成ったことを、
ここに正式に宣言しても、よろしいでしょうか。
この地を――双身一柱の神の降臨の地として、
王国における最も重要なる聖地と定めたく存じます」
セラフィオスの声に応えるように、
レオナルトとリリスは静かに立ち上がり、肩を寄せ合う。
「――ああ、私もここに宣言する。
王太子レオナルト・ヴァルトリアの名において、
我がリューセイオン王国は、今この時より、
この双身の神を国祀神と定め、
永久の祈りを捧げることを、ここに誓う」
その声に呼応するかのように、光の花びらと蝶が、
花吹雪のように、天よりふわりと舞い降りた。
祝福のように、奇跡のように――
空間を満たす光に包まれながら、
リリスは愛しい夫の腕の中で、
その光景を、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。




