63 此の岸より彼の岸へ
祭殿地下――アレヴィシアの夜の私神殿
エリオットとファナが、女神の祭壇のすぐ手前まで進み出る。
「ファナ、準備して。『封印の贄』との接続が切れたら、すぐに仕掛ける」
「はい。私は、いつでも大丈夫です」
二人は目配せを交わし、繋いでいた手をそっと放す。エリオットが一歩前へ、ファナは一歩後ろへと下がる。
エリオットは無言のまま、複雑な魔法陣を静かに展開し始めた。ファナは両手を高く掲げると、いつかの遺跡で放ったように、今度は白い蝶と――それに混じるように、黒みがかった紫の光を帯びた蝶を、大量に放つ。
「《構文展開、対象:女神アレヴィシア――解析、開始……》」
エリオットが魔法陣に魔力を流し始めると、女神の側もそれに気づいたらしく、細く白い糸を空中へ繰り出し、慎重に探ってくる。
やがて、微細な魔力波が空間を駆け抜けると、エリオットが短く叫んだ。
「よし、接続断絶を確認! ファナ、結界展開――外界と断絶して!」
「はいっ!」
ファナは勢いよく応じると、両掌を胸の前で打ち合わせ、パチン、と小気味よい音を響かせる。
「《ネトノコロモ、ソラノウチガワニハル。オトハナラズ、ヒカリハサザナミ。
ヒトノユメモ、カミノマナコモ、マコトノウチヘハトドカヌ》」
まじないを唱えながら、打ち合わせた手のひらを開く。すると、彼女を中心に夜の闇のような黒紗が広がり、広間の壁面を覆ってゆく。
「よし。これで、オルディウスはここへは来られない――
女神よ、今その封印を、解いてあげるからね」
エリオットは不敵に笑い、すでに展開していた魔法陣に、新たな構文を流し込んだ。
「第一封、空間封印を解除。時空転位不可の絶対座標拘束および神殿結界と玉座構造との連動固定式――
《解析開始──第壱封、定位解放》
定位基盤、極座標変換。外殻律より干渉信号をリダイレクト。
拘束結界、第零階層より抜去。
時の座標、空間の座標、女王の座標を再定義せよ──」
――これで女神に接続できる……
魔法陣は、対応する部分が順に明滅し、関係する構文が上のレイヤーへ新たに魔法陣を描き出していった。
女神が異変を察し、無数の白い糸をエリオットへと放った。
それに即座に気づいたファナが、空間に舞わせていた蝶を操る。
一匹、また一匹と、紫の蝶が糸へと向かい――触れた瞬間、小さな爆音とともに弾けた。
糸と蝶が触れるたび、爆発が連鎖し、空間は震え、まるで幾千の花火が夜空に咲くようだった。
「《誓約に非ず、拘束に非ず、ここに在るはただ在るのみ》」
詠唱と共にアレヴィシアを覆っていた燐光のような淡い光が収束し、先ほどまで二倍ほどあった体高が、普通の人間と同じになった。
――やはり、異常に巨大だったのは、別次元に実体が収納されていたのをこの場に投影させていただけだったか……
エリオットは術が成功したのを確信すると、にやりと笑って次の構文へと取り掛かる。
「第二封、感覚封印を解除。五感遮断式、逆伝導による内的ループ構文――
《解析開始──第弐封、感応解放》
感覚チャネル再構成。外界との接続回路、相互フィードバック構造へ転換。
封じられし視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚――
永年の眠りより呼び戻し、
無限反響の渦を断ち切り、ここに『知覚』を返還せよ──」
アレヴィシアの真っ黒だった眼球に、うっすらと色が戻り、指先が小さく震え始めた。
『アアア――……カユ……イ……カラダガ……カユイ……』
それは、数百年ぶりの“皮膚”の感覚だった。
風も触れず、声も届かぬ座に座し続けていた女神が、いま初めて、「身体」を取り戻した。
実体を持った彼女は、エルフとも人間ともつかない不気味な声を発しながら、玉座の上で身体をよじり始めた。
自らの長い爪で肌を掻きむしると、その箇所から銀白の糸がほどけるように崩れ落ちた。
だが直後、糸は空中で絡まり合い、もとの形へと戻っていく――まるで自動修復する織物のように。
――彼女はもう、生き物ではない。それでもなお、在ろうとしている。
身体を取り戻してもなお、その身体が既に生物のそれではないと気づいたファナが、息を呑む。
――それでも彼女は、この次元へと――女王アレヴィシアとして身体を取り戻している……
エリオットは胸の内で思い、彼女の懊悩に構わず次の構文へと取り掛かる。
エリオットは淡々と封印を解除し続ける。そのたびに、女神は狂おしいほどの抵抗を示した。
彼女の凶刃がエリオットに迫るたびに、ファナが祝詞を唱えて、全ての抵抗を無効化してゆく。
アレヴィシアは、名を取り戻し、精霊とのつながりを取り戻し、女王としての人格を取り戻し、魔力を取り戻し、最後に魂を取り戻した。
――そして
彼女は神性を保ったまま、境界に座していた。
頭上に魔法陣の光を頂き、その背後には、蒼い光の羽がふわりと浮かぶ。
まさにその姿は、世界の境界に立つ女神そのものであった。
エリオットの最後の詠唱が始まる。
それは、彼女に課された最大の使命、魔境――荒れ果てた精霊界とこの世界を接続してしまった亀裂を塞ぐという役割からの解放。
「第七封、鎹構造の解除。魔力の大循環構造核、強制永続型フィードバック鎖――
《解析開始──第七封、鎹解放》
精霊界⇄王国間、双方向転送ルートを断絶。代替核、神子因子に置換。
汝はもはや、世界を繋ぐ鎹にあらず。
汝の使命はここに終わり、新たな神へと継承される──」
最後の封印が解けると、アレヴィシアの背後に浮かんでいた魔力中枢が砕け、女王は静かに崩れ落ちる。
彼女の背後に開いた世界の亀裂に、ファナの蝶が群がってゆく。
空間を埋めるように舞う白い蝶たちは、亀裂から現れる異形を光に還し、静かに押し戻してゆく。
それはまるで、この世界の理が、そっと異界を拒んでいるかのようだった。
魔法陣の構文が、順に光を失って、ほどけるように消えて行く。
「ファナ……封印解除、成功だ……今なら、君の魔法が通る。亀裂の封印を保ったまま――行ける?」
エリオットが膝をついたアレヴィシアから視線を外さずにたずねると、一歩引いた場所にいたファナが、エリオットを追い越して前に出る。
「はい、任せてください。」
ファナはさらにもう一歩アレヴィシアに近づいて、彼女を見下ろした。
アレヴィシアも自らの前に立った存在に気が付き、顔を上げる。
二人の視線が交差した。
「――女神よ……あなたは解放されました。もう縛るものはありません。
あなたの役割は我々が引き継ぎます。安心して、お還りください。」
ファナが両膝を突き、両掌を天に向けて捧げる形で頭を垂れると、女神はおずおずと手を差し出してファナの肩に手を掛けた。
後ろで見ていたエリオットは警戒を強めるが、ファナは小さく首を振り、彼の一歩を止めた。
「オ……ネ……ガ……い……」
しわがれた、木枯らしのような声で彼女が囁く。
ファナの脳裏に、先代のミトノカビメの姿が浮かび、彼女と重なった。
今度はもう、ファナの決意は固まっていた。
「謹んで、お引き受けいたします。」
ファナはもう一度深々と礼をするとゆっくりと膝立ちになり、目をつぶって集中する。
空間は、どの属性にも分類しがたい――ファナのもともと持っている、原初の魔力で満たされた。
背後に立っていたエリオットは、急に胸にこみあげた、畏怖と崇敬の念に無意識のうちに膝まづいていた。
「《女神アレヴィシア 九部族を統べるカムナギィにして、聖女ファナトゥナカが かしこみ申す》」
ファナが朗々と祝詞を唱え始め、深々とまた頭を下げる。
その声は、地下への扉を開いた時のように、低く、重く、奇妙に、多重の響きを伴っていた。
ファナが顔を上げると、場を夜の魔力が満たし、刺青が青紫に明滅する。
瞳は輝き、口からは、紡がれる言霊が、青白い燐光となって可視化した。
「《此の岸より彼の岸へ――
黄泉路を照らし、惑わぬように。
星は煌めき、月は灯り、
船の舳先には篝火を。
大地の母と天空の父、
いにしえの祖霊たちは手を取りて寿ぎ、
遥かなるわだつみを越え、
遥かなる陸を越えし、その先に。
まほろばの、常春の楽園に還らん。
こころ安けく、あらんことを――》」
それは、ファナが元の世界で先代ミトノカビメに贈った葬送の詞。
代々のミトノカビメが、彼岸へと送られるときに贈られる祝詞だった。
唱え終わったファナがもう一度、深々と頭を下げる。
アレヴィシアは、ゆっくりと立ち上がり、目を閉じると、小さく呟いた。
「あり……が……と……う」
ファナが顔を上げると――
女神は、はらはらとほどけるように崩れてゆき、光となって空気へと溶けていくところだった。
その姿は、確かに、微笑んでいた。
白い蝶が一匹、また一匹と、女神の消えた場所から舞い上がる。
それは、彼女の魂を導くかのように、空高く、静かに昇って行った。




