61 夜見路のほとりで
「わかるか、ファナ。ここに恐らく、仕掛けがある。
構文は読み切れないが、太陽の運行と対応している可能性が高い。
ならば――日没を“錯覚させる”ことで、扉を開けられるはずだ」
エリオットはそう言いながら、リゼリヤーナの玉座の正面、床に刻まれた文様を慎重になぞる。
指先に走る冷たい感触に、彼の眉がわずかに動いた。
「それなら――夜に、闇に、問いかければよいのですね」
ファナは静かに応じた後、しばらく考え込む。
そして床に膝をつき、手のひらをそっと添える。
次の瞬間――紫紺の光が、ファナの手から音もなく広がった。
肌を這う刺青も呼応するように輝き、その魔力に満ちた姿は、まるで冥府の女王の降臨のようだった。
誰もが息を呑んだ。
「ファナ聖女は……本当は、闇属性に一番、適性があったのか……」
レオナルトがぽつりと呟く。
その声に驚きと畏れが滲む。
「《地におわします母なる女神よ 眠る子らを その腕に抱きて 夜見路を開き給え 星を灯し 月で照らし 夜見路を惑わぬように――》」
ファナの口から祝詞が紡がれる。
それは、これまでのどの声とも違っていた。
低く、重く。
しかも奇妙に、多重の響きを伴っていた。
一人で唱えているはずなのに、いくつもの声が重なり合い、異界から応答するような気味の悪さを孕んでいる。
その声を浴びた者は、無意識のうちに身を竦ませる。
リリスは青ざめた顔で、レオナルトの腕にしがみついた。
ファナを誰よりも愛するはずのエリオットでさえ、わずかに眉をひそめ、怯えの色を隠しきれない。
そのとき――
ファナの声と魔力に応じて、玉座前の床が反応した。
淡く浮かび上がったのは、エリオットすら見たことのない、古く複雑な魔法陣。
まるで地の底が息を吐くように、床は音もなく左右に開き、地下へと続く階段が現れた。
やがて紫紺の光は静まり、ファナがゆっくりと立ち上がる。
そして、微笑みながら振り返った。
「彼岸へと魂を送る祈りです。
いにしえのエルフ女王が、朝を“生”、夜を“死”と見立てていたなら……
その“夜”に呼びかけるのが、正しいと思いまして」
柔らかく語るその声は、さきほどの重唱とはまるで別人のようだった。
「……ファナ、大丈夫? ちょっと、いつもと違ったよ?」
エリオットが、おそるおそる問いかける。
ファナはくすりと笑った。
「気合い、入れましたから。
久しぶりに――筆頭カムナギィの本領発揮です」
冗談めかした口調とは裏腹に、場の空気はまだ張り詰めたままだった。
地下へと続く穴からは、冷たく湿った風が吹き出てくる。
エリオットはファナの傍らに立ち、その腕をそっと取って、軽くうなずいた。
「そろそろ行こうか……」
「はい。行きましょう」
ファナがうなずき返すのを見て、エリオットは最後に一度だけ、振り返る。
「セルジュ。ここへ」
名指しされた侍従は、普段と変わらぬ表情のまま一歩進み出ると、主の前で深々と頭を下げた。
「セルジュ……長らく、よく仕えてくれた。
そなたの功に報いることもできず、申し訳なく思う……」
「勿体なきお言葉――殿下、やめてくださいよ。
いつも通りで、お願いします」
セルジュはくしゃりと顔をゆがめ、その頬を涙が伝う。
「……もう、最期くらい、かっこつけさせてよ……」
エリオットは苦笑しながら、指にはめていた王子の印章指輪を抜き取った。
「これを、陛下に。」
軽く言うエリオットから、セルジュはそっと指輪を受け取り、押し戴くようにしてまた頭を下げた。
涙が、床にぽつりぽつりと落ち、いくつかの染みを作っていく。
「セレノア宮の皆のこと、レオナルトにも頼んであるけど、実務は君任せになると思う。
最後に苦労をかけるけど――よろしく。
その代わり、形見分けは君が一番に選んでいいから」
「殿下――」
笑顔で返そうにも、もう言葉が続かなかった。
セルジュはエリオットの指輪を懐に大切にしまうと、それでも袖口で涙をぬぐい、臣下の礼を取る。
「……いってらっしゃいませ。
……どうか、良き旅路を」
エリオットは軽くうなづき返し、もう一度だけ皆に視線を送ると、踵を返す。
そのままファナの手を取って、二度と振り返らず、暗い穴の中へと階段を下りて行った。
外の光はすぐに届かなくなり、あたりは漆黒の闇に閉ざされた。
だが、やがて目が慣れてくると、壁一面に青い小さな光が浮かび上がり、星のように煌めいているのに気づく。
階段は一定間隔で続いており、つまずかないように注意しながら二人は慎重に進んでゆく。
やがて、月のように丸い明かりが、ぼんやりと道を照らし始めた。
その淡い光が、進むべき方向を静かに示しているかのように。
「どこまで続くのでしょう……」
「座標からすると、もうすぐだと思う……」
会話の余韻が闇に吸い込まれていった、そのすぐ後――
二人は、広間の入り口にたどり着いた。
最後の階段を下り切る前に、二人は足を止め、広間を見渡す。
そこは、アレヴィシアの昼の神殿――上層の玉座の間と同じほどの規模で、天井には満天の星が瞬き、
中央には丸い大きな満月のような光が、たった一つ、静かに掲げられていた。
そしてその真下――
大理石の供物台の向こうに、玉座がある。
そこに座していたのは、人の倍はあろうかという女神の姿。
白く淡い光を発しながらまどろむその姿は、細部まではっきりと見て取れた。
尖った耳、美しい顔立ち、額にはティアラ。
――それは紛れもなく、エルフの女王アレヴィシアだった。
「……こちらには気付かれてないけど……たぶん、この広間に足を踏み入れたら気づかれるよね?」
エリオットが声をひそめると、ファナも小さくうなずく。
「……レオナルトさまたちに連絡しますか?」
「そうだね。この空間に入ったら、外に信号が送れるかもわからないし――行くか?」
「行きましょう」
ファナの頷きを確認して、エリオットは深呼吸をひとつ。
「じゃあ、一歩踏み出したら送るから――三、二、一」
数えながら、エリオットは指を払うように魔力を放つ。
光の粒が集まり、一匹の翡翠色の蜻蛉を形作った。
透き通る薄翅には、淡く青い光がたゆたう。
蜻蛉は静かに羽ばたくと、ためらいなく広間を離れ、地上を目指して飛び立った。
その直後、広間の床に二人の足が触れた刹那――
満天の星々と満月の光がふっと消える。
代わりに、寂しい石の壁と高い天井に、
薄明るい青の灯りがひとつ、またひとつと点り始めた。
「さあ、ファナ。女神のお目覚めだ。僕たちを歓迎してくれているようだよ」
「はい。いよいよですね」
二人はしっかりと手をつなぎ、
女神アレヴィシアの玉座へ向けて――
一歩一歩、歩みを進めていった。
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「行ってしまわれましたね……」
地下への階段を見つめながら、リリスがぽつりと呟いた。
「そうだな。
――俺たちは、俺たちの役割を全うして、あいつらに報いねばならないな」
レオナルトが低く答える。
と、にわかに広間の入り口が騒がしくなった。
「もう……?」
「オルディウスに気付かれたか……?」
一同に緊張が走る。
しかし、現れたのは――
国王付きの近衛騎士団の精鋭を従えた、国王アレクシスだった。
「……エリオットとその聖女は、間に合わなかったか」
感情を読み取らせない、王者の声音。
だがその眉間には、深い皺が刻まれていた。
その皺が、何よりも雄弁に、彼の心残りを物語っている。
「……いらっしゃったんですか、父上」
レオナルトが静かに告げると、アレクシスはわずかに表情をゆがめる。
「……ああ。
自分の聖女を迎えに行かない王子が、どこにいる」
うなるように言って、アレクシスは壇上――
封印の玉座に鎮座するリゼリヤーナを見据えた。
「あのご尊顔は――確かに、陛下の聖女……リゼリヤーナ様ですか?」
リリスが静かに尋ねると、アレクシスは一歩、玉座へと踏み出し、答えた。
「ああ。忘れようもない。
私の聖女だ――顔も、身体も、服装も、装飾品も……
すべて、二十余年前に別れたあの日のままだ」
もう一歩、玉座に近づいたアレクシスが、静かに問う。
「……あれを、取り戻しても良いか?」
「はい。エリオットと申し合わせて、そういう手はずになっております。
まもなく合図が届きましたら、我々がリゼリヤーナ様と女神との接続を切断し、
仕掛けられている封印を、できうる限り解きます。
――そうなりましたら、陛下に、受け止めていただきたく存じます」
レオナルトは、父の目をまっすぐに見つめる。
「自らの契約の王子が、目覚めたときにそこにいれば――
きっと、リゼリヤーナ様も、心強いでしょう」
「相分かった。――待とうではないか。すでに、二十余年待っている」
アレクシスは、自らに言い聞かせるように、静かにそう言った。
いくばくも経たぬうちに、エリオットからの合図が届く。
翡翠色の蜻蛉が、地下の通路からひらりと飛び出し、天井高く舞い上がった。
そして一瞬ののち――はじけるように光を散らし、青と緑の粒が、あたりを彩る。
それは、エリオットの魔法属性を示す、彼の色だった。
蜻蛉が消えたあと、地下へと繋がる通路の扉が、まるで幻だったかのように音もなく閉じ、静かに床と一体化していく。
やがて亀裂も見えなくなり、完全にどこにあるかわからなくなった。
「……エリオット殿下からですね!」
リリスが鋭くレオナルトを見つめる。
彼もまた、静かに、重々しくうなずいた。




