60 門出に捧ぐ祝詞
エリオットが一歩を踏み出すと、靴音がカツンと鋭く響いた。
磨き抜かれた床はまるで鏡のように滑らかで、中央の通路には塵一つ落ちていない。
祭殿の内部には、幾本もの巨大な柱が整然と立ち並び、その最奥には、いくつかの玉座のような高座が淡く輝いているのが見えた。
だが──。
一行は進むうちに、柱の陰や床の隅に、無残なものを見つけてしまう。
白骨化した遺体の数々。
衣服や鎧、武器は、祭殿の魔法によって今も美しく保たれている。だが、命を失った肉体には、その加護は及ばなかったらしい。
肉は腐れ落ち、どの骸も、美しいほどの純白の骨となって横たわっていた。
その装いと武具から、彼らがかつてのエルフや人間の戦士たちであることは明らかだった。
「八百年前──ここで、戦闘があったんだ……遺跡の壁画に描かれていた通りだ。」
エリオットが低く呟くと、遺跡探索を知らぬセルジュたちは怪訝そうに眉をひそめたが、口を挟む者はいなかった。
殊に、リリスとミーナは白骨の間を縫うように進みながら、畏れるように互いの手を固く握り合っていた。
六人目の騎士を配置し終えると、一行は玉座の前までたどり着いた。
玉座の周囲はやや広く開け、そこには、先ほどまでの遺体とは明らかに趣の異なる死体群が静かに横たわっていた。
まず目を奪われたのは、玉座に座す美しいエルフの女。
透き通るような白い肌、閉じられた瞼、まるで今も眠り続けているかのようなその姿は、いささかの腐敗も見せていなかった。
その女の両脇には、いくつかの椅子が設けられていた。
そこには、聖女の衣をまとった女たちが、苦悶に歪んだ表情のまま、干からびて座している。叫ぶ者、呻く者、うなだれる者──誰ひとり、穏やかな死を迎えた者はいなかった。
聖女たちの衣装は多様で、それぞれの時代にこの王国で流行した意匠が、そのまま残されていた。
「封印の……贄?」
エリオットの呟きが、広間の静寂に妙に大きく響いた。
「……そうだろうな。あのリストにあった『封印の贄』たちの……なれの果て、だろう。」
レオナルトが胸の奥をえぐられるような表情で応じた。
周囲に視線を巡らせると、干からびた遺体は玉座脇の椅子だけでなく、座ったまま崩れ落ち、床に無造作に投げ出されているものも多かった。
──そして。
その中でも、ひときわ異質な遺体があった。全部で四体。
すでに白骨化していたが、身にまとうのは四十年前の流行を映した服。二組の男女だった。
一組はうつ伏せに倒れ、手を取り合い、最後まで見つめ合っていたのだとわかる姿のまま白骨と化していた。
もう一組は、男が女を抱きしめ、柱にもたれかかるように寄り添っている。
こちらの遺体の周囲には、黒ずんだ染みが広がり──腕が欠けた女の方が、失血死していたことを物語っていた。
「おい、あれ……」
レオナルトが低く呟く。
その視線を追って、エリオットも頷いた。
「ああ……おそらく、第31代国王の弟王子たち――反逆の世代だろうね。身なりからして……。あちらの柱にもたれかかっているのが、アナスタシア聖女とその王子か……。
――やはり、彼らもここまで到達していたんだ。」
沈黙が広がる。
無残な白骨を前にして、誰もが言葉を飲み込んだ。
やがてリリスが、不安そうに口を開く。
「失敗したら……私たちも、ああなるのですよね……」
その声に、エリオットはきっぱりと首を振った。
「いや、僕たちは必ずやり遂げる。君たちに頼んだ作業に、そんな危険はない。
──必ず、無事に王城へ帰れる。必ずだ。」
その声は穏やかだったが、芯にあるのは揺るぎのない決意だった。
「これが……父上の聖女、リゼリヤーナ……か。」
レオナルトとリリスは壇上へ上がり、玉座に静かに眠るリゼリヤーナをしげしげと見つめる。
彼女は今も、まるで微睡むように美しい姿のまま、玉座に座していた。
その間に、エリオットは解析の魔術陣を静かに広げ、堂内の魔力構造を探る。
やがて、玉座の直前の床に、何らかの封印が施された特殊な構造が存在することに気づく。
「……やっぱり、ここはアレヴィシアの居城だったんだ。
彼女が君臨していた時代──昼はこの玉座に座し、夜になればここから封印を解いて、地下の私神殿へ下る。……当時のエルフの神殿信仰と完全に一致するよ。」
エリオットはそう言い、玉座の前の封印の中心を指差す。
「恐らく、女神の本体──アレヴィシアは、この地下に眠っている。」
「ということは……日没まで待たなければ、その通路は開かないのか?」
壇上から振り返って問うレオナルトに、エリオットはしゃがみ込み、封印の床に手を当てながらしばし考えた。
「自然に開くのは日没後、たぶん儀式の設定でそう組まれてる。
でも……封印を解除すれば、今すぐにでも開けるはずだ。たぶん、ファナの精霊魔法がこの封印に一番相性がいい。」
そう答えたあと、エリオットはゆっくりと立ち上がり、レオナルトにまっすぐ向き直った。
「──この封印を解いたら、僕たちはお別れだ。
最後に合図を送るから、それと同時に、手順通りにリゼリヤーナの封印の解除と、女神との接続の断絶を頼む。」
「……いよいよ、か。」
呟きながら、レオナルトとリリスは壇上を降り、エリオットとファナの前に立った。
「……俺は、信じているぞ。お前なら、きっとやり遂げられる。──我が弟だからな。」
レオナルトは右手を差し出し、無言で握手を求めた。
「――本当に、聖女召喚前とは別人みたいだよ。
レオナルトをこんな風に変えてくれたことだけは、女神に感謝してるよ。」
エリオットは最後まで皮肉を忘れずに言い添え、彼の右手をしっかりと握った。
「……僕も、信じている。あんたたちが治めていく未来は、きっと素晴らしいものになる。
なんたって、血を分けた──兄さんだから。」
そう言うと、きまり悪そうに一瞬だけ手に力を込め、素早く手を引っ込めた。
レオナルトは、最初は何を言われたのか分からず目を瞬かせたが──
じわじわと、それがエリオットが初めて、そしておそらく最後に口にした「兄さん」だったと気づく。
そして、溢れる涙を止めることができなかった。
一方、ファナはリリスと向き合い、友人として、そして同じ聖女として、最後の抱擁を交わしていた。
「ファナ様……一緒に過ごした期間は短かったですが……本当に楽しかったです。わたくし、ずっと忘れませんわ……」
リリスが涙ぐみながらそう告げると、ファナも目元に薄く涙を浮かべて微笑んだ。
「私も、リリス様とお話しできて、本当に幸せでした。
――あの、最後に。祝福させていただけませんか?リリス様と、そのお腹にいる新しい命に。」
「え……今、なんて……?」
リリスが驚きに声を詰まらせた瞬間、その場にいた全員の視線がファナに集中した。
「ファナ聖女、それは本当か!」
レオナルトは涙も引っ込み、掴みかからんばかりに身を乗り出した。
エリオットが慌てて一歩前に出て、ファナを庇うように苦笑しながら腕を伸ばす。
「はい。ご懐妊おめでとうございます。リリス様のお腹に、新しい命が二つ──確かに宿っています。
彼らが無事に生まれてくるように。そしてリリス様が、母として健やかに歩まれますように。
どうか、祝福を授けさせてください。」
ファナの柔らかな声が、祭殿の静謐な空気に透き通るように響いた。
「ええ、ええ。お願いしますわ。
ねぇ、レオさま……私たちに、子どもが生まれるのね。なんて、なんて嬉しいのでしょう。」
リリスはかすかに震えながら、込み上げる涙を堪えて微笑んだ。
そんな彼女に、レオナルトはそっと寄り添い、肩に手を置く。
ファナは静かに両手を掲げると、ゆったりと祝詞を紡ぎ始める。
「《大地の母よ──天空の父よ──いにしえより連なる祖霊たちよ。
新しき子らに祝福を、新しき母に加護を。》」
両手は地面から光をすくい上げるように動き、そして天空へと解き放たれる。
すると──
リリスの足元から、淡く輝く光の柱が立ち上った。
全ての属性──六色の輝きが優しく絡み合いながら、螺旋を描いてリリスの全身を包み込んでいく。
赤、青、緑、黄、白、紫──
それはまるで、これから生まれてくる命の可能性すべてを祝福するように。
柔らかな光に包まれながら、リリスは静かに目を閉じた。
レオナルトは、その肩をしっかりと支えながら、言葉もなくただ妻と未来の命を見守っていた。




