59 原初の森、最奥へ
朝もやの立ちこめる中、セレノア宮の正門前は、にわかに騒がしさを増していた。
レオナルト直属の近衛騎士団から、遺跡探索にも随行した精鋭十二名が再び召集され、出陣の時を今か今かと待ち構えている。
原初の森の内部では、馬の移動は可能だが馬車は進めない。
リリスはレオナルトと、ファナはエリオットと、それぞれの愛馬に同乗する。どうしても同行すると言い張ったリリスの侍女ミーナは、レオナルトの侍従ヴェイルと相乗りとなった。
一方、エリオットとファナの側近はごくわずかだ。侍従セルジュと、護衛の騎士が一人だけ随行する。
「おはよう。レオナルト、リリス嬢。今日も頼りにしているよ。……教えた術式の詠唱練習は、しっかり済ませてくれた?」
「もちろん、万全だぞ。」
玄関から姿を現したエリオットに、レオナルトが短く頷きを返す。
レオナルトもエリオットも、王子としての正装に身を包み、リリスとファナもまた、聖女として最高位の装束をまとっていた。
今回の遠征の真の目的を知るのは、彼ら四人だけである。
聖域とはいえ、長らく打ち捨てられた『女神の祭殿』へ赴くのに、まるで戴冠式のような正装――最初は騎士や使用人たちも首を傾げたが、「女神に関わる重大な儀式を行う」と説明されれば、それ以上問いただす者はいなかった。
「《光の御使よ──吾が子らを守り、悪しき牙を退け、疲れを知らず、目は霞まず、征く子らを守り給え》」
エリオットに従って玄関の階段を下りる前、ファナは静かに祝詞を唱えた。柔らかな声が空気に溶け、聖なる加護の言葉が紡がれていく。
その瞬間、光の粒が周囲に生まれ、朝もやの中をふわりと漂い始める。
霧の白に溶けこみながら、金銀に煌めく無数の光粒が、随行の騎士たち一人ひとりの肩や額にそっと降り注いだ。
「おお……」
どよめきが起こる。騎士たちは驚きつつも、身体を揺らして効果を確かめ、じわじわと広がる力の流れに目を見張った。
重い鎧の下に満ちていく活力。視界が澄み、空気すらも軽く感じられる。
「さすがファナ様……」
セルジュが思わず感嘆の声を漏らす。
エリオットは小さく笑みを浮かべ、隣に立つファナにだけ聞こえる声で囁いた。
「上出来だよ、ファナ。素晴らしい加護だ。」
ファナは控えめに微笑み返した。
「皆様の無事のためですから。」
いよいよ旅立ちの時が来た。
騎乗する前に、ファナはセレノア宮の侍女たち一人ひとりと抱擁を交わし、その小さな手でそっと祝福を授けていく。光の粒が指先から零れ、侍女たちの髪や袖口に静かに降り積もった。
最後に、一番世話になった侍女長と向き合った。短い間だったが、仕えてくれた彼女は、ほんのわずかに眉根を下げると、深々と頭を垂れる。
「ファナ様……わたくしどもは、皆、奥様の侍女でございます。いつまでも……ファナ様のお帰りをお待ちしておりますよ。」
「……ええ。ありがとう。世話になりました。」
侍女たちは、まだファナが帰らぬ旅路に向かうことを知らない。
だが侍女長は、ここ連日の様子から、うっすらと何かを感じ取っているのかもしれなかった。ファナはそれ以上、何も言えなかった。
そのまま、エリオットに手を取られて馬上へ引き上げられ、横座りに落ち着く。
エリオットはそっと囁いた。
「あんなに厚い祝福を与えるなんて……君が女神になったって知ったら、侍女たちは全員出家して、いずれ聖人に列せられちゃうかもね?」
「あら、それは困りますね。彼女たちには、幸せな人生を歩めるような祝福を授けましたのに。」
小さな冗談が、わずかな緊張を和らげた。
だが朝もやの向こうに広がる森の影は、確実に二人を待っていた。
やがて一行は、セレノア宮の裏手から森へと入って行った。
森の中は、ここ四十年ほど人の手が入っていない。
木々は鬱蒼と茂り、そこかしこに魔物の気配が漂っていた。だが──これも祭殿の魔法なのだろうか。いにしえの小道は不思議なほど明瞭に残されていた。厚い下草に覆われることもなく、まるで目に見えぬ誰かが今日まで整え続けてきたかのように、彼らをまっすぐ導いていく。
分かれ道のたびに、上古神聖文字を刻んだ道標が静かに立っていた。
レオナルトやリリスの目には、ただの模様にしか映らない古びた立石――だが、エリオットの目には、それは確かな文字列として読み取れた。
「右だ。このまま進めば、祭殿に至る。」
エリオットが迷いなく指示を出すたび、騎士たちは粛然と従った。
ファナとリリスは、広範囲に聖魔法を展開し、結界のように隊列を守る。
それでも時折、結界の隙間を縫うように魔物が接近してきたが、騎士たちが素早く剣を抜き、露払いを果たしていく。
朝もやが次第に晴れてゆく。
差し込む木漏れ日が揺れ、鳥たちの声が微かに響き始めた。
やがて、太陽が真上に差しかかる頃──一行は、不思議な広場へとたどり着いた。
木立が不自然に途切れ、円形の空間がぽっかりと開けている。地面は平坦に均され、青々とした芝が一面を覆っていた。
遠くの梢で、見たこともない色彩の小鳥が一羽、ひくく啼く。
静寂と神秘。
誰もが無言のまま、馬の歩みを止めた。
広場の中央にそびえ立つのは、白亜の神殿――『女神の祭殿』だった。
「……何百年も前の――エルフの神殿様式だ。」
エリオットが感嘆と共に呟く。
「何百年も前だと? 確かに、エルフは八百年前にこの大陸を去ったが……
あいつ……オルディウスの魔力か?」
くすみ一つなく、塵一つなく。まるで今しがた建てられたばかりのような祭殿の外観に、レオナルトが驚きの声を上げる。だが、エリオットは首を横に振った。
「いや。あいつの気配はしない。
これは、もっと古い……より原始的な術式で保全されているみたいだ。」
エリオットは試しに、土魔法で泥団子を作り出し、白亜の壁へと投げつける。
だが、泥が壁に触れた瞬間、わずかに光のゆらめきが生じ──泥は滑り落ち、瞬く間に地面へ吸い込まれていった。壁はまるで、初めから何も触れていなかったかのように清浄なままだった。
「……自己浄化式か。完全に閉鎖された結界領域……アレヴィシアの居城として、ふさわしい造りだ。」
エリオットが低く呟くと、後方のセルジュが緊張をにじませた声を漏らす。
「まるで、生きているみたいですね……」
誰もそれに答えなかった。
祭殿はただ、静かに彼らを迎え入れようとしているようだった。
「で、いったいどこから内部に入れるんだ?」
後列にいたレオナルトが問いかける。
エリオットとファナは馬から降り、慎重に祭殿の正面へと歩を進める。
レオナルトとリリス、そして騎士たちも次々と下馬し、二人の背に続いた。
エリオットが緩やかな階段を上がり、正面の巨大な扉に手を掛ける。
しかし──押しても引いても、びくともしなかった。
「正面からは無理か。……なら──」
周囲に視線を巡らせ始めたエリオットの隣で、ファナが静かに大扉へ手を当てる。
その瞬間、鈍い重音が内部から響いた。魔力のうねりと共に、封じられていた何かがゆっくりと解かれていく。
蝶番がかすかにきしみ、大扉はひとりでにゆっくりと、外側に向かって開かれていった。
「……まるで、俺たちを歓迎しているようじゃないか。」
レオナルトが、わずかに震えそうな心を奮い立たせるように言った。
「歓迎してくれているならありがたいけど――さて……レオナルト、リリス嬢。覚悟はいいかな?」
振り返ったエリオットに、レオナルトもリリスも静かに頷く。
それぞれの決意が、もう後戻りできぬところまで固まっていた。
「よし。騎士隊は半数を祭殿周辺の哨戒に残す。残りは内部に同行して通路の警戒にあたれ。
ヴェイル、それからセルジュは同行許可だ。……ミーナは、どうする?」
エリオットが視線を向けると、侍女のミーナはわずかに唇を噛んだあと、きっぱりと答えた。
「行かせてください。お嬢様の御側にいたいです。」
「わかった。だが、絶対に無理はしないこと。」
「はい!」
ミーナの声は少しだけ震えていたが、その足取りは迷いなくリリスの後ろについた。




