58 人間としての最後の夜
「いよいよ明日かあ……準備は進めて来たけど――感傷的になってだめだね」
祭殿へと発つ前夜、ソファに座ってアナスタシアの手帳を見返していたエリオットは、湯あみから戻ったファナに苦笑交じりで話しかけた。
「でも、エルは帰ってくる可能性も残っているんだし――」
「ないよ」
ファナの淡い希望を、エリオットは静かな言葉で打ち消した。
「ない。僕がここに帰ることは、二度とないよ」
「で、でも……私だけで女神に――」
不安に言葉を詰まらせるファナに、エリオットはそっと首を横に振り、ソファから立ち上がって彼女をベッドへと促した。
「させるわけないじゃん……。君が気を病むと思って詳しく言わなかったけど――君を真の女神にする『かなめ』は、僕自身なんだよ」
エリオットはベッドの縁にファナをゆっくりと座らせると、自らのナイトガウンを脱ぎ落とした。
「エル……その模様……」
ファナが息を呑んだ。
エリオットの素肌――衣服の下に隠されていた身体の隅々まで、精緻な魔法陣がびっしりと刻み込まれていた。
「ファナの刺青を参考に、自分自身に刻んだんだ。君の刺青と同じように魔力を増幅させ、その魔力を世界に適応させ、循環させ、また君へ戻す……そういう仕組みだよ。これは『封印の贄』の構造も応用している」
淡々とした口調で、エリオットは自分の運命を語る。その言葉の奥に潜む強い覚悟と狂おしいまでの愛情に、ファナは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「でも――王族は、自分の身体を傷付けちゃだめだって……刺青も禁止だって……」
ファナの瞳から、涙が零れ落ちた。エリオットは静かに彼女の隣に腰を下ろし、優しくその手を握りしめる。
「そうだね。でも、必要だったんだ。僕も君と共に逝く。君と悠久の時を越えていくために――僕はずっと前から決めていたんだ」
エリオットの静かな微笑みには、悲壮なまでの決意が滲んでいた。
ファナはもう言葉にならず、ただ彼の胸元に顔を埋め、嗚咽をこらえるしかなかった。
やがて彼女が落ち着きを取り戻した頃、エリオットはそっと彼女を離し、その両手を優しく包んだ。
「明日、女神を彼岸へ送ったら、この回路を起動して君と接続する。『契約の儀』なんて比べ物にならない――接続というより融合だ。肉体が個を保てるか、僕たちの意識がどうなるかも、正直わからない。だけど、成功すれば僕たちは永遠に離れない」
その未知の未来に怯えがないわけではないことが、微かな震えを帯びた彼の言葉から痛いほど伝わった。
「ファナ、お願いがあるんだ……実は、この刺青はまだ不完全なんだ」
エリオットはそう言うと、ファナの手を取り、自分の右わき腹に触れさせた。
そこには、かつてのファナがそうであったように、一箇所だけ空白が残されていた。
「僕に最後の刺青を入れてくれないかな……。模様は何でも構わない。この二つの点をつなぐ形なら、術式的には完成する。ただ、できれば君の文化や君自身を表すものだと嬉しいけれど……」
ファナは息を呑み、かすかに震える声で答えた。
「……本当にいいの? 刺青を入れたら、すべてを手放すことになるのよ?
もうご飯を食べることも、術式の研究をすることも、家族や親しい人と話すことも……
私たちだって、お互いを認識できるかどうかすらわからない。
人間として味わえるすべての喜びを捨てる。それでも、本当に――」
「いいんだよ。それで、ファナとの永遠が手に入るなら、安いもんだ」
エリオットは迷いのない眼差しでファナを見つめ、優しく微笑んだ。
ファナは、自分が選ばざるを得なかった選択の重さに、改めて胸が締め付けられた。
「ごめんね、エル。あなたからすべてを奪ってしまって……。
でも、ありがとう。私のわがままを聞いてくれて、私と一緒にいることを選んでくれて」
込み上げる感情に声が震えるのを、ファナは無理に微笑んで隠した。
「うん……刺青、彫らせて。こう見えても、ムラでは刺青をよく施していたのよ?
私の彫る模様は、とても素敵だって定評があるんだから」
彼女は冗談めかして笑ったが、その目には涙が浮かんでいた。
エリオットは、すでに準備を整えていたらしく、道具一式を載せたトレーをチェストの中から取り出して、再びベッドへと戻ってきた。
「君に施術した時と同じ道具だけど……いいかな?」
「ええ、十分よ。」
ファナがうなずくと、エリオットはトレーを彼女に手渡し、そのままベッドの上に身を横たえた。
「この体勢でいいかな。じゃあ――お願い。」
エリオットは軽く目を閉じ、幸せそうな微笑みを浮かべた。
ファナは、そっと深呼吸して施術に取りかかる。
彼女が描き出したのは、「8」の字に似た曲線を幾重にも応用した、複雑で柔らかな模様だった。
渦のように回転し、重なり合い、結び合いながら、まるで無限に続く命の流れを思わせる文様。だまし絵のように錯綜しながらも、どこか優しく温かな秩序がそこに宿っていた。
やがて、刺青が完成し、道具を片付けるファナに、エリオットが身体を起こして問いかけた。
「ファナ、これはどんな模様なの?」
「これは――私たちのムラに伝わる、一番大切な模様。
人と人の絆、自然の循環、生と死の往還、神との約束……そのすべてを内包する、結び目の文様です。
中心から花開くようにと願いながら、私たちの言葉で言う『ファナトゥナカ』――『花咲く中心』の祈りを込めて、少し応用して彫りました。」
エリオットはしげしげと手鏡に映して模様を眺め、何度も角度を変えながら目を細めた。
やがて、ゆっくりとファナに向き直る。
「――ありがとう。」
その声は、静かで、深くて、どこまでも幸福そうだった。
治癒魔法をかけて、刺青による傷を塞ぎ、炎症を鎮めてから――二人はベッドの中で、お互いの体温を確かめ合うように寄り添っていた。
「明日の今頃は……全部終わっているんですね……」
ファナは、エリオットの胸板に頬をぴったりと寄せたまま、かすれた声でつぶやいた。
「そうだね……。絶対に成功させるよ。君との永遠を手に入れる。」
エリオットは、静かに、しかし決意を込めてファナをさらに深く抱きしめる。
「でも……もう、誰とも話せなくなるし、誰の顔も見られなくなる……」
ファナの言葉は、すがるように小さく震えていた。
エリオットはその髪を優しく撫でながら、淡く微笑む。
「それでも――僕たちが循環させる魔力が、世界を支え続けるんだ。
僕たちはもう姿を持たないけれど、この王国は続いていく。
レオナルトとリリスの息子たちが聖女を召喚する時も、そのまた子どもたちの代も、その先も――僕たちは静かに祝福を送り続ける。」
「……でも、もし人が滅んでしまったら?」
ファナはそっと問いかけた。
エリオットは少しだけ目を閉じ、静かに答える。
「……遠い未来には、そういうこともあるかもしれない。
でも、たとえそうなったとしても、僕たちはきっと、それすら気づかないんだろうね。
それが――世界から隔絶され、ただ循環し続けるという『永遠』なんだろう。」
二人はしばらく、言葉を失って抱き合ったまま、互いの鼓動を重ね続けた。
「私たちがもし、自我を保てたとしたら――永遠なんて途方もない時間の中で、エルは私に飽きてしまわないかしら……」
ファナは小さく微笑みながらも、ほんの僅かに不安を滲ませて尋ねた。
エリオットは少しだけ目を細め、彼女の頬に唇を寄せる。
「そんなわけないよ……。今だって、君の顔を見ているだけで、鼓動は高鳴り続けているし、僕の身体は、まだ君を欲している。君に触れたくて仕方がない。」
彼はファナの髪をそっと撫でながら、言葉を続けた。
「寝食が必要なくなったら、もう何も気にせず、好きなだけ君と愛し合えるんだ。
永遠なんて時間が手に入ったら――きっと、時間という概念そのものが消えてしまう。
考えれば考えるほど……なんだか楽しみになってきたよ。」
エリオットの声には、静かな熱と、ほんの僅かな陶酔すら滲んでいた。
ファナはその言葉に、今度こそ涙をこぼしながら微笑んだ。
「私も……きっと、あなたに飽きることはないわ。」
二人はそっと唇を重ねる。
その唇の感触すら、もうじき失われる「人間としての記憶」となることを知りながら。
「エル……もう一度抱いて。
もし、あなたと永遠に睦み合えるとしても――人間としての夜はこれが最後……だから、お願い。」
ファナが切実に訴え、わずかに震える声がエリオットの耳に届く。
エリオットは微笑を浮かべ、そっと彼女の頬を撫でた。
「いいよ。君が忘れないように。僕も忘れないように。
人間だった感触を、この胸に刻み付けよう。何度だって、君を抱く。
君が疲れて眠り落ちるまで、何度でも――。」
少しだけ冗談めかしながら、エリオットは低く囁く。
「もう……ファナったら、こんなに僕を煽って。
責任、取ってもらうからね? このままじゃ朝まで眠らせてあげないよ?」
ファナは涙に濡れた頬で微笑み返す。
そして、再び二人は、互いの体温を重ね合った。
幾度となく愛を交わし、汗と涙と吐息に濡れたベッドの中――
「……ファナ」
エリオットが名を呼ぶと、ファナは微かに唇を動かして応えた。
もう声すら出ないほどに疲れ切り、彼の腕の中で微睡んでいる。
「君は……もう眠っていいよ。僕はまだ君を抱きたいけれど……でも、もうすぐ夜が明ける。」
微笑みながら、彼はそっと彼女の額にキスを落とす。
「ありがとう、ファナ。僕に君を与えてくれて。
これが、僕たちの――人間としての最後の夜。」
ファナはうっすらと目を開け、静かに囁いた。
「……幸せでした。ありがとう、エル。永遠も……きっと、きっと幸せです。」
ゆるやかな呼吸が、眠りの中へと沈んでいく。
彼女の頬に、ひとすじの涙が光っていた。
エリオットは彼女の髪を撫でながら、ただ静かに目を閉じた。
やがて、静寂の中に二人の微かな寝息だけが響く。
しばらくすると、カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が差し込み始める。
夜明けの青白い光が、静かに部屋を満たしていく。
エリオットは先に目を覚まし、隣で眠るファナの頬にそっと触れる。
「――おはよう、ファナ。」
微かに微笑んだ彼の目は、けして悲しみではなく、ただ穏やかな決意に満ちていた。
新たな神の座へと向かう朝が、始まった。