55 アナスタシアの遺言
「逃げられたな……」
レオナルトが悔しげに言うと、エリオットは黒曜石の刃に付いた血を、注意深くハンカチで拭って魔力で保存しながら答える。
「――レオナルトが、国民を……未来を捨てるなんて、覚悟、言うと思わなかったよ……」
「そんなものあるわけないだろ。ハッタリだハッタリ。あんな奴の言いなりは嫌だからな。
聡いお前のことだ、何かいい策を思いつくんだろう?協力は惜しまないぞ。」
レオナルトが、悪い顔をして言うと、エリオットはやれやれと頭を掻く。
「僕頼みか……仕方ないな。
まあ、僕がファナ以外どうでも良いって言ったって、ファナは僕と違って慈悲深いから、なんとかするしかないんだよねぇ」
「すみません」
ファナが、少し困ったように眉を下げて言った。
「勝算はあるんだろう?」
「まだ、ないな」
エリオットは小さく息をついて、続けた。
「さっきのオルディウスの構文も、アナスタシアの手帳にあった構文も、まだ完全には解析できていない。あれを読み切らない限り、女神に対してどんなアプローチが有効かも判断できない。でも――」
言いかけて、少し間を置く。言葉を慎重に選びながら、エリオットは続けた。
「“勝算”と言い切れるほどのものはない。でも、人類滅亡みたいな最悪のエンディングは避けられそうな筋道が、いくつか見え始めてる。まだ、どれも机上の空論の域を出ないけどさ」
エリオットは、オルディウスの魔力が消えた壁をもう一度見渡し、それからファナの手を取って、やわらかく言った。
「王国の存続と、僕とファナの幸せな新婚生活――まずはこの二つが最低ライン、ってことでどうかな。
あとは、それを守りながら、未来の王子と聖女たちが幸せに生きられる道……そのあたりも、うまく織り込める策を考えないとね」
「お前にとっては、国家の存亡と新婚生活が同列なのか」
エリオットの言葉に、レオナルトは心底呆れたように――だが、どこか弟らしいと思っているような声音で返した。
遺跡から引き上げる頃には、すでに日が傾いていた。
一行はそのままヴォルステッド侯爵の居城にもう一泊し、翌朝、王都への帰途についた。
シャズリナの遺体が安置されていた部屋は、仮の封印を施して閉鎖された。だが、あの遺跡そのものが王国の成り立ちに関わる重大な秘密を抱えていること、そして、彼女の霊廟とも言うべき場であることを鑑みると、これまで通りの観光地として再公開するのは難しい――その点で、一行の意見は一致していた。
ヴォルステッド侯爵には、レオナルトから遺跡の重要性を説明し、王国として秘匿すべき情報が含まれているため、引き続き非公開のまま保全と監視に努めてほしいと要請がなされた。
また、遺跡が観光地として廃れる原因になった“怪我をした伯爵令息とその恋人”とされる若者たちについても、ただの事故ではなく、居合わせた何者か――たとえばオルディウスによる魔力的な介入があった可能性を、エリオットは密かに疑っていた。
「……それほどの場所だったのですね。承知しました。
我が家の名にかけて、封印は必ず守ります」
ヴォルステッド侯爵は話を聞き終えると、しばし沈黙し、やがて、敬虔な女神の信奉者らしく、深く沈痛な表情で頷いた。
帰りの馬車の中、四人はそれぞれ口数も少なく、それぞれ物思いに耽っていた。
馬車は夕方近くに王城へと戻った。
そして――夜が更け、王都の喧噪もようやく静まった頃、エリオットはようやく机に向かっていた。
灯火の下に置かれているのは、一冊の手帳。
アナスタシアが、あの短い生涯の中で遺した、ただ一つの遺書のようなものだった。
本来ならもっと早く向き合うべきだったのかもしれない。
だが、ミルドアが示した遺跡の情報、そしてレオナルトの都合により、あの探索が先に優先されたのだ。
今ようやく、静けさの中で――彼は、彼女の最後の思考と真正面から向き合う。
アナスタシアが、自身の王子ユリウスへの恋文という形で綴った言葉の中に、構文が隠されていた。
ミルドアの部屋で初めてそれを目にしたとき、エリオットはただならぬ気配を感じたが、すべてを読み解くには至らなかった。
――だが今は違う。遺跡の壁画を通して得た知識が、彼の理解を一気に加速させていた。
それは、単なる恋文ではない。手帳に描かれていたものは、女神の本体が封じられているとされる、『原初の森』最奥――すなわち『女神の祭殿』の座標と、その構造図。
アナスタシアなりの手法で、女神の封印構造を解析し、しかもそこに対して何らかの干渉を施した痕跡があった。
まるで、それは時限式の呪文。彼女は自らの死をもって、“何か”を起動させようとしていたのだ。
「……すごいな。これが本当なら……」
エリオットは手帳のページをめくりながら、低くつぶやいた。
「陛下が別大陸のエルフ・リゼリヤーナを召喚できたことも、僕がファナを選んだことも……リリス嬢の魔力増強が、期待ほどじゃなかったことも……全部、アナスタシア聖女が仕組んだってことになる」
「え……?」
ソファの上で、毛布にくるまってうたた寝していたファナが、名前を呼ばれて小さく身を起こした。寝ぼけ眼でこちらを見つめる。
「聖女召喚の術式って、本来はね」
エリオットは柔らかな声で説明を始めた。
「王子にとって最適な人物を、空間的にも時間的にも“近い順”に探す仕組みなんだ。
でも、アナスタシア聖女は、その検索条件に“精霊魔法の素質”っていう新しい項目を加えたみたいなんだよ」
ファナはきょとんとしながらも、じっと耳を傾けている。
「しかもそれだけじゃない。
検索の“順序”そのものも書き換えて、本来なら引っかからないような時代――太古とか、未来とかまで対象を拡張したみたいなんだ」
エリオットは手を組みなおして、さらに続ける。
「たとえば、ファナ。君は“四代前の王妃・トシコ陛下”と同じ世界から来てるって、以前話したよね?
でもね――君は、トシコ陛下の時代よりも、四千年も昔から召喚されてきてる」
「よ、よんせんねん……?」
ファナが小さくつぶやいて、困ったように首をかしげる。
「うん。君と同じ世界からは、何人か聖女が召喚されてるけど、ほとんどがトシコ陛下の時代から前後200年くらいしか離れていないんだ。
だからずっと、どうして君だけこんなに昔から呼ばれたのか不思議だった。――でも今ならわかる。
アナスタシア聖女は、最初から“君みたいな子”を探すために、術式そのものを書き換えてたんだ」
エリオットは手帳を手にしたまま席を立ち、ファナの隣に腰を下ろした。
「リゼリヤーナが呼ばれたのも……エルフだったから、だと思う。
彼女の前に召喚されたエルフは、ほんの数例しか確認されていないんだ。
それに、おそらく――召喚時に与えられる“女神の恩寵”も、意図的に抑えられていた。
だから、リリス嬢の魔力があまり上昇しなかったんだろうね」
「……なんで、そんなことを……?」
ファナが不安げに身を寄せながら、そっとつぶやいた。
「――たぶん、それがあの手紙……『女神に染まらなかったあなたたちへ』に繋がるんだと思う」
エリオットは手帳を指でなぞりながら、慎重に言葉を選ぶ。
「アナスタシア聖女は、精霊魔法に近く、女神の影響をできる限り受けない聖女――
そして、それを受け止められるだけの理解を持つ王子を、わざと探すように術式をいじった。
彼女はきっと……僕たちのような存在を、最初から“待っていた”んだ」
ページをめくる手を止め、エリオットはゆっくりと続ける。
「手帳の中には、構文上での“擬似的な神格化”の試行が記されてる。
自分自身が、女神に成り代われるかどうか――そういう実験だよ」
ファナが息を呑む。
「でも、彼女は最後に気づいてしまった。
女神から魔力を借りる限り、いくら構造を再現しても、それは“同等品”でしかない。
見かけだけの、ニセモノの女神だってことに」
エリオットの声には、どこか痛みが滲んでいた。
「もし成り代われたとしても、結局は贄を喰らい続ける存在になるしかない。
――それじゃ、何も変えられない。だから、アナスタシアは諦めたんだ。
自分がなるんじゃなくて、次の誰かに託すことを選んだ」
そして小さく笑ってみせた。
「たぶん……彼女自身、“贄を喰らう”なんて、心底まっぴらだったんだろうね」
「……私なら、女神になれるって。オルディウスが、そう言っていましたね」
ファナが真剣な眼差しで、エリオットを見つめる。
「うん。たぶん、奴の言っていた“女神”ってのは、今のアレヴィシアと同等の、あの構造のことだろうね。
でも――僕は、もうそれを超える術を知ってる」
エリオットはそう言って、そっと手帳を閉じた。
「遺跡の壁画を見て、ガルナシオン時代にアレヴィシアが魔力炉にされた構造を理解した。
オルディウスがこの八百年、どんな術式を積み重ねてきたのかも見えた。
そして今、アナスタシアの手帳を読んで……僕はようやく、“違う道”の可能性に辿り着いたんだ」
彼は立ち上がり、ファナの隣に座ると、迷いなくその身体を強く抱きしめる。
「君を――贄を必要としない、“本物の女神”にできるかもしれない。
それはつまり……僕が、君とこうして過ごせる時間を手放すことになる、ということなんだ」
「でも……私の答えは、わかってるんでしょう?」
ファナが、穏やかな声で言う。
その瞳は、逃げもせず、揺れもせず、まっすぐに前を見ていた。
「……うん。だから、言いたくない」
エリオットは目を伏せて、小さく笑う。
「言いたくないけど――君が、そう言うだろうって、ずっと分かってた。」
彼の腕に力がこもる。
手放したくなくて、壊したくなくて、それでも――彼女が選ぶなら、その道を整えるしかないと知っている。
「私はあなたが大切だけど、あなたがいるこの世界も、無くなってほしくないって思ってしまうんです。わがままでごめんなさい……それでも……」
ファナもエリオットの背中に手を回して、強く抱きしめる。
「ファナ……ファナ……」
エリオットが嗚咽混じりに、彼女の名を呼ぶ声だけが、静かな室内に響いていた。




