53 名もなき戦士の記憶
そうまるで、幽霊……ファナが具現化させたエルフの女の魂の残滓は、まるで幽霊のように、そこにいた。
『我が主を……アレヴィシアさまを……だれか……解き放って……』
話が通じるのか、こちらを感知しているのか、読み取れない中、ファナ以外の三人は戸惑う。
「《名を。名を告げて。》」
ファナが腹の底から響かせるような、いつもと違う威厳のある声で言うと、エルフの女はファナに焦点を合わせて、呆けたように彼女を見た。
『私は、シャズリナ。アレヴィシアさまに忠誠を誓いし誇り高き戦士。』
名を告げたとたんに、シャズリナの表情は引き締まり、往時の威厳が戻る。
「《シャズリナ、貴女は何か未練があったのではない?何があったの?教えて。》」
『今は、いつだ。あれから、何年経った。』
「今はヴァルトリア朝の王国暦で七八八年。フィルディアス=カエリオス・ヴァルトリアが王国を打ち建ててから、八百年近く経っている。――俺は、その末裔、レオナルト・ヴァルトリアだ」
「僕は同じくエリオット・ヴァルトリア、こちらがリリスで、君と話しているのはファナ。二人とも聖女だよ。」
自己紹介されるとシャズリナは目をつぶり、しばらく考えて目を開いて洩らす。
『八百年……エルフにとっては遥か昔ではないが……それでも、長い年月だな……』
彼女はわずかに目を伏せてから、再びこちらを見た。
『しかし不思議だ……それだけの年月、代を重ねたにもかかわらず、お前たちは、まだフィルディアスの面影を宿している。――そして、いまだに聖女が召喚され続けているということは……』
そこで言葉を切り、シャズリナの声がかすかに震えた。
『……アレヴィシアさまは、まだ……囚われたままなのだな……』
「この部屋の入口にある壁画は読んだ。前王朝の二百三十六年ごろまでの動きはだいたい把握した。
現在、ヴァルトリア朝樹立から五十年間ほどの間の事は、都合の良い神話としてしか伝承されていない。
君が生きている間、いったい何があったんだ?エルフ女王は奪還され救出されたのではないのか?」
エリオットが聞くと、シャズリナは彼の方に視線をやって、無念そうにため息をつく。
『ああ、外の壁画は、アレヴィシアさま奪還のため蜂起したところまで記されてたな……
我々は、精霊魔法の使い手を封じるための術式に対抗する術式をオルディウスが開発するまでは、無力に等しかった。
外の壁画を読んだなら、オルディウスは知っているだろう。ほら、そこに写真がある。』
シャズリナが指さす方をレオナルトが探すと、額に入った絵が出てくる。
四、五人の男女が写ったもので、その細密さにレオナルトは驚きを隠さなかった。
「こんな精密な絵は見たことがないな。右端が……あなたか。」
『そうだったかな……左端に写ってるのがオルディウスだ。酷薄そうな顔、してるだろ。昔から、ああいう奴だった。』
「現在では“写真”の技術は失われているからね」
横合いからエリオットが写真をのぞき込んで、「あっ」と声を上げる。
「……ネリファスじゃないか……!?」
エリオットの言葉に、ファナもぎょっとして写真をのぞき込む。
「あ、はい……この人、確かに、あのとき私を誘拐した人物に間違いありません。顔、覚えてます。」
『あいつ……まだそんなことをやっているのか……奴は、精神操作系の術が得意だったから、組織に溶け込むのもお手の物だろう……』
シャズリナはため息交じりに言う。
『オルディウスの開発した術式のおかげで、我々はすぐに盛り返し、王城を落として……ラザムカルド・ガルナシオンと、その王子たちを討ち取り、王都の門前に首を掲げた。原初の森内のアレヴィシアさまの居城も落として、彼女の玉座も取り返した。
だけど……私たちはもう手遅れだったんだ……
彼女の自我は完全に封印されるか崩壊させられていて、外界からの刺激を一切受け付けなかった。
反乱軍は、そこで二つの意見に分かれた。
私たちエルフは皆、アレヴィシアさまに、尊厳を守る名誉の死を望んだ。あんな状態で、魔力を搾取され、精霊界との亀裂をふさぐためだけに存在するなど、誇り高いエルフとして、あまりにも惨めだった。
だけど……』
彼女は一呼吸おいて、また話始める。
『だけど国王に収まったフィルディアスはじめ人間の貴族たちと、エルフの中でもオルディウスだけは意見が違った。
人間たちは、一度手に入れた強大な魔力を、結局手放すことはできなかったし、自分たちで精霊界との亀裂を塞ぐ術もない。アレヴィシアさまには、このまま女神として、宗教的な中心に居続けていて、国を守ってほしいと願った。
オルディウスも、それに同調した。奴なりにアレヴィシアさまを敬愛していたのか、殺すことができなかったのか――
それとも、術式の実験材料として手放せなかったのか。己の存在意義を、そこに見ていたのか。
……今となっては、もう分からない。
オルディウスは、人間の王侯貴族たちを巧みに誘い、甘言を弄し、彼らの特権意識をくすぐった。
王子による聖女召喚を餌に、確実な王位継承を約束し、反対派のエルフたちを討伐し――
“女神”の魔力を、完全に囲い込んだのだ。』
彼女の鋭い視線が、二人の王子を射抜く。
『君たち、少しは不思議に思わなかったかい?
他国の王朝が、二百年、三百年と経たずに潰えていく中で…… なぜ、ヴァルトリアだけが、男子一系で八百年も続いてきたのか。
君たち王族は、自分たちが為政者だと信じているかもしれないけれど――現実には、“女神の番人”に過ぎない。
あの場所から女神を動かさないために。他の人間どもに利用されないために。
女神の檻である王国を繁栄させ、枯渇した精霊界に魔力を還元するために。
……そのために、聖女たちは差し出されてきた。ずっと、ね。』
シャズリナの声が震え、輪郭が波打つように揺らいだ。
まるで、感情の揺れがそのまま霊体のかたちを歪ませるように――
ファナは心配そうに、魔力の供給量を増やした。
『私も、オルディウスたちにつかまってしまった。あいつらは、精霊魔法に精通しているから……私を制圧することなど、赤子の手をひねるくらい簡単だったに違いない。
気が付いたら、このありさまだよ……意識を取り戻すまでは、アレヴィシアさまの魔力を安定させ、人間に使いやすい形に変換させる――
ああ、あいつは『封印の贄』と呼んでいたな……
術式の回路に組み込まれ、部品として、聖女の再構成実験の試作体にされた。
……私の身体は、彼らの手で幾度も“書き換え”られていた。おぞましい辱めも――
……最期は……わからない。肉体としての生を終えて、意識だけとなっても、ここから出ることはできなかった……君たちが今日ここに来るまで、私はずっと、ひとりだった。薄暗がりの中でひとり――』
所在無げに瞳を揺らしたシャズリナに、ファナは叱咤するように言った。
「《貴女は、何を望んでいる?私たちに何をしてほしい?》」
『私を――そして、アレヴィシアさまを――この檻から解放してほしい……』
「でも!女神を玉座から動かしたら亀裂が開いて、こちらの世界に魔物があふれてしまうのではっ!?」
リリスが必死の形相で問い詰めた。
レオナルトも頷いている。
『でも……そもそも亀裂が開くくらい、魔力を“汲み上げた”のは、あなたたち人間じゃないか。
なんで、あなたたちの失敗の尻拭いを、アレヴィシアさまがしなければならないの?
もう、私たちを解放して……』
彼女の悲痛な訴えを聞いてしまったリリスは、何も言えず、無意識に自分の下腹を撫でた。
シャズリナは、言いたいことは言ったとばかりに目をつぶり、そのまま消えて行く。
光はほどけて霧散し、元の朽ちた遺体へと戻った。
「ファナ、シャズリナは消えたの?」
エリオットが聞くと、ファナは首を横に振った。
「いいえ、彼女はまたここに囚われています。今は言いたいことを言ったので消えただけ。
たぶん、アレヴィシアが解放されなければ、彼女の魂も、命の循環に戻ることはないのでしょう……」
「だって……私たちだって……そんなの知らなかった……」
リリスがつぶやいて、顔を手で覆う。
レオナルトは、持っていた写真を元の場所に戻すと、何も言わずにリリスを抱き寄せる。
ファナはそんな二人を無言で見つめていたが、エリオットが寄り添って腰に手が回されると、ふっと笑みを浮かべた。
しばらく後、ファナは、シャズリナの顔に、持っていたハンカチを被せて、葬送の祝詞をつぶやくと、彼女の棺となったガラス容器の蓋を閉めた。
そして、彼女の証言以上の情報はないと、四人は、無言のまま部屋を後にする。
石造りの回廊に、静かな足音だけが戻ってゆく。
ファナは歩きながら、もう一度、名もなき戦士の顔を思い出していた。