52 魂の囚われし場所
ファナの魔力で、広間中の壁が光った状態になったのを、エリオットは起点を探して読み進め、ある一点で視線を止めた。
やがて考えがまとまると、エリオットは再び壁画に目を走らせ、レオナルトたちに向き直って解説を始める。
「前王国暦235年、リューセイオン王国は、それまで友好関係にあった原初の森一帯を支配していたエルフの小国と交戦状態となったようだ……目的はもちろん、魔力源としてのエルフ狩り。
穏健派やエルフと友好関係を築いていた王侯貴族や学者たちは反対したが、国王のラザムカルド・ガルナシオンが特に強攻に政策を推し進めた。」
「当時神殿は何をしていた?」
レオナルトが聞くと、エリオットは首を横に振る。
「当時、神殿はまだ組織されていない。リューセイオン王国に現在のような国教や一神教はなく、地域色の強い多神教が信仰されていたようだよ。
当時の主流派は魔力や精霊に対して神秘性を見出さず、資源としての側面を強く押し出したことからも、信仰を持たない人々も多かったかもしれないね。」
「なるほど……」
レオナルトは、日ごろ篤く信仰している女神がまだいないことに戸惑いながらも首肯く。
「国王をはじめとした主流派は、精霊魔法の使い手を封じるための術式を開発し、戦いのたびに勝利を重ねていった。そしてついに、伝説に名高いエルフ女王アレヴィシアの生け捕りに成功する。
最強の魔力源を手に入れたと歓喜した彼らは、彼女の意識を封じ、魔力を効率的に抽出して国中へ供給する体制を築いた……そして彼らは、この魔力源を『女神の御力』と名付けたんだ……」
「ひどい……なんてことを……。まさかそれが、“女神”の正体なの……?」
リリスが両手を胸の前に組み、張り詰めたように肩を震わせながら、信じがたいものを見るようにつぶやいた。
「心を奪い、名を奪い、気高い者を、ただの魔力の供給源と堕として、あえて『女神』と名付けたのですね……“ミトノカビメ”みたいに……」
ファナは険しい表情と口調で言った。彼女の心中では、かつて彼女が運命づけられていた神の花嫁と、この世界の女神が重なる。
エリオットは彼女らを見つめた後、先を続けた。
「でも、うまくいっていたのは最初だけで、すぐに問題が噴き出した。
彼らは、自分たちが使っている魔力の正体すら、正確には理解していなかった。
アレヴィシアの強大な魔力は、僕たちが通常では感知していないけれど併存する異世界……“併行世界”とでも言おうか……そこの精霊たちとの循環で成り立っていたようなんだ……
ところが、彼女を『女神』に祭り上げて、一方的に搾取するようになった結果、併行世界が荒廃し始める。荒廃した併行世界で、魔力不足で歪んでしまった精霊たちが、こちらの世界へあふれ出して、それが『魔物』として認識された……」
「なるほどな……魔物に聖魔法が特に効くのは、倒してるんじゃなくて、“元に戻してる”からか。
精霊に戻った時点で姿を消すから、俺たちはそれを“倒した”って思い込んでたわけだ。」
レオナルトが感心したように言うと、エリオットは静かにうなずいた。
「結局、当時の主流派にできたのは、この問題を“女神”という存在で封じ込めることだけだった。
異界との最大の亀裂は、彼女の王国の玉座に開いた――そこから魔物があふれ出し、エルフの残党たちは大陸を捨て、別の大陸へと移った。
主流派は、その玉座に“再び”アレヴィシアを座らせた。『女神』として、魔力を搾りながら、亀裂を塞がせるためにね。
……すべてを奪われて、結局、かつての玉座に戻されるなんて、皮肉な話だよ。」
エリオットは再び壁面に目をやり、最初に魔法で文章を読んだ正面の壁――その最奥を指さした。
「主流派が、次々に発生する問題に対処している間に、親エルフ派の公爵、フィルディアス=カエリオス・ヴァルトリアを中心に、
アレヴィシアの側近だった副将シャズリナ、
それに、エルフでありながら術式学の基礎を築き、人間との共生と魔力の活用を模索したオルディウス・フィレウスら――
大陸に渡らなかったエルフたちも加わって、アレヴィシア奪還作戦が敢行された。
……でも、壁画の伝承は、ここで終わってる。」
「その後……どうなったんですの?」
リリスが興味深そうに尋ねると、エリオットは一拍置いてから答えた。
「ここから先、約五十年の歴史は、すでに神話としてしか語られていないんだ。
アレヴィシア奪還作戦の旗印となったのが、フィルディアス=カエリオス・ヴァルトリア――女神と邂逅し、現王朝を築いた初代国王の名だよ。
彼が新たな王朝を打ち立てた時点で、奪還は果たされ、前王朝の打倒も成し遂げられた……そう、考えるのが自然だと思う。」
沈黙の中、ぽつりとレオナルトがつぶやいた。
「なのに今なお、現王朝に『女神』は君臨し続けていて……
聖女を、贄として喰らい続けている……ってわけか。」
三人が沈黙の中、それぞれの思索に沈んでいる間――
ファナだけは、もう一度ゆっくりと壁面を見回していた。
彼女の視線は、最後にエリオットが指さした正面の壁に留まる。
そこだけ、何かが違って見えた。
ファナはしゃがみ込み、今度は真横に移動しながら、様々な角度から文様を見つめた。
そして何かを確信したように、エリオットの袖をそっと引いた。
「エル……この文様、アナスタシアさんの手帳の仕掛けと似ています。
見る角度によって、模様が――変わるんです。」
彼女の言葉に、エリオットは反射的に身を乗り出し、壁に張り付いた。
「ちょっと待ってよ……ファナ、すごいな。
うん、確かにこれは、アナスタシアの手帳と同じ多層構造の書式で描かれてる。
よく気づいたね。」
「……精霊の気配が、ここだけ濃くて。なんとなく……変だなって」
ファナは少し照れくさそうに、微笑んだ。
「何が……書かれてるんだ?」
レオナルトも興味深そうに壁面へと寄ってくる。
「うーん……何かの構文……封印の解除?とにかく発動してみよう。」
エリオットははやる気持ちを抑えるように隠されていた詠唱の文言を読み取って、術式を起動させる。
すると、何の継ぎ目も見えなかった壁面に四角く亀裂が走り、自動で外開きに開いた。
そこにはぽっかりと、新たな通路が空いていて、魔力の灯が奥へといざなっている。
床には埃が積もり、足跡一つないことから、ここ数百年誰も足を踏み入れていないのがうかがえた。
「ミルドアは……これを知っていたのか?」
レオナルトが聞くと、エリオットは少し考える。
「たぶんだけど、知らないんじゃないかな?ファナクラスの精霊魔法の使い手がいないと、壁面全体を光らせるなんて無理だと思うから、あの構文に気が付くことすらできないと思うよ。」
「行くん……ですよね?」
リリスが少し不安そうに言うと、エリオットは「もちろん」と微笑む。
点々と灯りが付いている通路を、エリオットとファナが先行し、その後ろをレオナルトとリリスが着いてゆく。
やがて四人は、開けたホールのように場所へと出た。
高い天井には小さな明り取りの窓があり、ホール全体を薄暗く照らし出している。
部屋全体を、様々な機器が埋め尽くしており、その様子は、ネリファスの地下研究室を彷彿とさせる。
中央には、筒状のガラス容器が鎮座していた。透明なはずのその表面は、長い年月のうちに微細な結晶が浮き出し、半ば白濁している。チューブとコードが何本も絡みつくように接続され、まるで何かを“生かし続けている”ような……そんな、不気味な気配を放っていた。
エリオットが進み出ると、死に絶えていたと思われたこの部屋の機器たちが反応して、何かのランプが明滅した。
音もなく、ガラス容器を満たしていた液体が排出され、容器の全面が開く。
中に眠っていたのは……茶色く変色し、ミイラ化して朽ちた遺体だった。
かろうじて残っていた耳や装飾品から、エルフの女だったことがうかがえる。
「ひっ」
リリスが小さく悲鳴を上げると、レオナルトが慌てて彼女を抱きこんで視界を防ぎ見えないようにする。
エリオットは慎重に歩み寄り、遺体の周囲を見渡した。装置に接続されていたチューブのいくつかは、脊椎に直結するように差し込まれており、骨に沿って不自然な金属の痕跡が刻まれている。
「……これは、生きたまま魔力を抽出していた痕跡にも見えるね。」
ファナが小さく口を開く。
「この人……魂の気配が、まだ……ここにいます……」
静かな声だった。けれど、ホールに響くその声に、三人は息をのんだ。
「まだ、って……死んでるよな?」
レオナルトがファナに尋ねるように問うと、彼女はうなずく。
「はい……けれど、魂だけが、ここに囚われたままです。……きっと、伝えたいことが、あって。
――この世界でなら、届くかもしれない……」
彼女は少し考えると、遺体に向けて手を突き出して、呪文を唱え始める。
「《我は此岸の使、過ぎし水の面に舟を出すもの。
泡沫の声、還りし霧のしじまに応えよ。
名を持たぬものよ、名を託したいものよ。
かりそめの姿を許し――語られなかった物語を、今ここに。》」
ファナの手から、青白い魔力の粒子が漂い、エルフの遺体を包んでゆく。
圧倒的なファナの魔法に、三人は声もなくたたずんでいる間に、光の粒は遺体の上で像を結び、それは美しいエルフの女の形をとった。
やがて光の粒の彼女はゆっくりと目を開け、口を開く。
『もう――わたしの声は、届かない……どうか、どうか……』