47 知の扉と贖い
「やあ、エリオット君、先日は興味深い話をありがとう。私の話は役に立ったかね?」
「ええ、先生のご助言のおかげで、最良の結果を掴み取ることができましたよ。感謝しても仕切れないくらいです」
ガラトゥス・ミルドアに連絡を取ってから数日とおかず、エリオットとファナは、彼の住まいを訪ねていた。
彼らを出迎えたのは、白髪と白髭の印象的な一人の老人だった。しっかりとした印象を受けるが、どこか疲れたような、くたびれたような空気を纏っている。
勧められたソファーに腰を下ろしながら、ファナは窓の外を見て首を傾げる。
「さっきまで、王都の中だったと思うのですが……」
なるほど、確かに彼女の言うように、二人はミルドアに指定された王都の城壁に程近い小さな一軒家のドアを潜ったはずなのに、窓の外には広大な田園風景が広がっている。
「君が、エリオット君の聖女だね。うむ、これもあの娘の置き土産の一つでね。転移門の一種なんだが、私の居場所を隠すのに一役買ってくれている。」
ミルドアは目を細めて、どこか懐かしそうにエリオットとファナを見た。
「さてと……、今になって、この印章を再び目にするとは思わなかったよ……」
彼は言いながら、テーブルの上に薄紫の封蝋を置いた。
それは、あのアナスタシアからの手紙に付いていた物で、エリオットがミルドアに連絡を取った際に同封したものだった。
エリオットは、テーブルの上に例の手紙と手帳を並べて置き、ミルドアを見つめる。
「先生のご助言のおかげで、アナスタシア聖女からのメッセージを受け取ることができました。
実は、僕たちを取り巻く現在の状況でも、色々と問題が起きてまして……それらと照合しても、彼女の訴えには信憑性を感じます。」
ミルドアは少し悩んで、それから手紙に手を伸ばした。
「彼女の手帳には、あなたの名前が何度も出てきた……王城からも神殿からも、距離を取っているあなたなら、37年前、何があったか、語ることができるのではないかと思いまして……」
エリオットが彼を探るように見る。
ミルドアは手紙を丁寧に読んでから、ため息をついた。
「まさか……アナスタシア君が、このような手紙を残していたとは……」
彼は手紙を広げたままテーブルに置くと、エリオットをこちらも探るように見返す。
「エリオット君……ここに書かれていた通りなら……君の聖女……ファナ聖女だったかな?は――かなり純粋な精霊魔法の使い手なのかな?」
「はい、厳密には少し違いますが、概ねそう考えて正しいと思います。彼女の魔法は、術式理論や構文概念からはかけ離れた、もっと根源的な場所にあります。そして何より、この世界で、一度も女神の力を行使していないのです。」
エリオットの言葉に俄かには信じられないと、ミルドアはエリオットとファナを交互に見た。
「判定の儀で術環は刻印されたのだろう?」
「はい、しかし彼女の魔力体系や魔法発動の方法が、現代の術式理論に適合せず、魔力の回路としては機能していますが、ただそれだけです。詠唱の構文の入力も、女神への感応も見られません。」
「なんと……」
ミルドアは信じられないものを見るようにファナを見た。
ファナは少し困ったように、恥ずかしそうに、曖昧に微笑む。
「だから……先般の学会で、先生にご意見を仰いだのです……
その結果、僕は彼女そのままの組成を保つ、と言う考えに至りました。」
「しかし、君たちは『契約の儀』を行ったと聞いているし、実際に魔力のつながりも感じられるが……」
訝しげなミルドアに、エリオットは意を決して言う。
「はい。僕とファナの魔力は確かに繋がっています。しかし、通常の契約ではありません。
神官の目をかいくぐり、儀式での術式は全てブロックし、詳しくは言えませんが、ある特殊な方法で、常時接続状態にあります。王子側の未契約によるリミッターもそれで誤魔化し、解除に成功しております。」
「エリオット君……君はまさか、儀式の最中、術の解析とブロックと独自の魔力接続を、リアルタイムで行ったと言うのか?」
「はい、下準備はあらかじめしておきましたが……概ねその場で……」
信じられない、と再びつぶやくと、ミルドアはソファーに沈んだ。
「当時はまだよくわかっていませんでしたが、先生のご指導があったからこそ、ファナを僕の方に適合させるのではなく、ただ、魔力を繋げてありのままの彼女を保持するという考えに至りました。
しかも、彼女と魔力を繋いだところ、僕側に変化が起こり……今では、僕は女神の支配下から抜けて、実質、ファナの支配下にあると言う状況です。おかげで、アナスタシアの手紙が届きました。」
「何ということだ……」
ミルドアは、手で顔を覆うと、しばらく動かなくなった。
「アナスタシア聖女の手紙を受け取る以前――僕たちは、ある事件をきっかけに、聖女を『贄』にしている勢力の存在を疑いはじめていました。
実際、押収した資料の中には、それを裏づける術式や記録が見つかっていて……。
そして、その矢先、ファナが一度、そうした術式に拐かされ、危うく『贄』にされかけたのです。
……そんな折に、アナスタシア聖女の手紙が届いた――まるで、彼女がすべてを見通していたかのように。」
ミルドアは、顔を覆っていた手を退けると、再びエリオットを見、黙って先を促す。
「手帳の中身も、レオナルト……第一王子と、彼の聖女とも共有しました。
僕たちは――少なからず、衝撃を受けましたし……、制度に対する怒りもありました。」
エリオットは一度視線を落として、それから再びミルドアを見つめて言った。
「……聖女を贄にする存在が今もなお暗躍している以上、ファナの安全は決して保障されません。だからこそ、僕はアナスタシア聖女のように、戦うしかないと考えました。
ですが彼女自身、勝利を信じてはいなかったようです。そして、彼女の死後も、王国にこれといった変化は現れていない。
むしろ――多産傾向にあるヴァルトリア家が、父の代で断絶寸前にまで追い込まれたこと。
その父の契約聖女が、贄にされたという事実。
すべてが、彼女の敗北を物語っているのかもしれません。
問いただそうにも、王宮でも神殿でも、誰もが魔法で口を封じられ、語ることすらできない……。
――けれど、真実を知らないまま戦えば、僕たちもまた、アナスタシアと同じ轍を踏むことになる。」
「君は――戦おうというのかね? 我らが女神と……」
ミルドアの目が、厳しく細められた。
エリオットはひるまず、その視線を正面から受け止め、ゆっくりとうなずく。
「女神が、ファナを“贄”に望むのなら――戦うしかありません。
僕は、ファナと平安に過ごす未来のためなら、なんだってできる。」
しばし沈黙ののち、ミルドアは目を閉じる。
「君も……正統なるヴァルトリアの血を継ぐ王子なのだな。」
まるで何かを悟ったように、彼は静かに息を吐き、
やがて観念したように姿勢を正す。
「私は多くのものを失った。友も、弟子も、愛するものも……」
重苦しい一言を吐くと、ミルドアはゆっくりと話し始めた。
「君たちが、具体的にどんな資料に辿り着いたかはわからないが――その、アナスタシア君の手帳に何が書いてあるかは、ほぼ把握している。
そして、そこに記されていたことは、四十年ほど前に、私たちが辿り着いた“真実”と、限りなく重なっている。」
「……私たち?」
エリオットが聞き返すと、ミルドアはうなづく。
「ああ。当時、私は弟子たちと共に、古文書を修復するプロジェクトを立ち上げていてね。
アナスタシア君は、ちょうどそこに参加しようとしていた。だがその矢先、第三王子の聖女として召喚されてしまった。
――そして、私たちは偶然、視覚阻害のかかっていない召喚魔法陣を観測することに成功したんだ。
……王朝成立期の術式に関心を持つ学者たちが、あんなものを見たらどうなるか――
君も、研究者の端くれなら、想像がつくだろう?」
エリオットは、自分に置き換えて考えて苦笑いをする。
「私たちは極秘の研究会を立ち上げ、夢中で読み解いた。時を開けず、契約の儀も執り行われ、アナスタシア君の関係者として参加し、そちらも観測することに成功した。
未知の階層の解読法、術式同士の構文の共鳴、神殿が秘匿していたあの二つの魔法陣は、本当に素晴らしく、我々を夢中にさせた。夢中になるあまり、我々は――アナスタシア君や王子たち、当事者への配慮や敬意を――欠いていたのかもしれない。」
彼は、遠い日を懐かしむように、あるいは後悔に苛まれるように、ぼんやりと遠くを見つめていた。
「気がつけば――彼女は、我々よりもずっと深いところまで辿り着いていた。
召喚の時に何が起こるのか、契約で何が変わるのか、女神が何を欲しているのか……あの賢い子だ。辿り着かないはずがない。
そして――私がそれに気づいた時には、彼女はもう、女神に剣を突きつけていた。
……そのすべては、私の責任だ。
私が――彼女に、禁断を開ける鍵を渡してしまったのだから……」
「それが……あの手帳に書いてあった、魔法陣や制度の解釈ですか?」
「知の扉は、開ける者を選ばない。
……私は、アナスタシア君の手に、その扉の鍵を置いてしまったんだ――何の覚悟もないままにね……
それに……私も、女神に対して、復讐したい……そんな気持ちがなかったと言えば、嘘になる……」
エリオットとファナの表情に、ミルドアはふっと小さく笑った。
どこか自嘲めいて、懐かしさと悔恨の入り混じった微笑だった。。
「……まあ、これは私個人の話だがね。もう随分と昔のことだ。だが――それでもなお、心に棘のように残っている」
一拍置いてから、彼は続けた。
「私には、かつて愛した人がいたんだよ。彼女は、女神に取られた……召喚され、聖女となって王子に嫁いだ……」
「それはもしかして――」
ファナが言いかけるのを、ミルドアは苦笑しながらさえぎる。
「アナスタシアかって? 違うよ。もっと古い話だ。もう、六十年以上も前のことだ。
聡明な女性でね。共に机を並べ、夜を徹して研究に没頭した。――私は彼女を愛していたが、彼女は……違ったようだ。
王子のものとなり、研究より恋を、論文より愛を選んだ。
私もやがて、別の女性と結婚したが……心の奥底では、あのときのことを、ずっと――女神を、恨んでいたのかもしれない。
だから――彼女たちが女神に一矢報いたと知ったとき。原初の森のあの場所で、彼女と王子の遺体と対面したとき……胸のすく思いさえ、したんだ」
エリオットとファナは言葉を失って、ミルドアを見つめるしかない。
ミルドアは、ここではない遠い過去を見つめながら、先を続ける。
「だが――こんなことになるなんて、我々は女神が何者なのか、何を望み、何を為しているのか、その本質を理解していなかったんだ。
異変は、じきに起き始めた。聖女を召喚した第四王子とその聖女が相次いで変死し、王太子の生まれたばかりの子どもたちも、一歳の誕生日を迎えることはなかった。
王族だけではない。多くの高位貴族の若年者たちが、なかでも魔力の強い者たちから、次々と犠牲になっていった。そして国王も――二度、玉座が代わった。」
ミルドアは視線を落とし、目を閉じる。
部屋には、重い沈黙が流れた。
「異変は、十年にわたり王都を覆い、王侯貴族の命を奪い、数多の運命を狂わせた。
……いち早くロスヴァルド辺境伯領へと疎開していたアレクシス陛下だけが、王族の中で唯一、生き残った。
そして――陛下の聖女が失踪したことで、王国はようやく“表向きの”安寧を取り戻したのだ……」
「それは……陛下の聖女、リゼリヤーナが、『封印の贄』となったことを、ご存じだったんですね?」
驚愕が混じったエリオットの問いに、ミルドアは沈黙で答えた。
「――そして、私も生き残ってしまった……幸か不幸か、あの娘が、研究会の安全な研究場所の確保のためにと用意したこの場所が、私の命を長らえさせたのだ……
……私は断罪されなかった。そして、この罪を、今も覚えている者は――おそらく、もういない。」