42 君と呼ぶ風
「ファナ、さっきは言い出せなかったんだけど……ちょっと、確認したいことがあるんだ」
セレノア宮に戻り、執務室の前で別れようとしたファナを、エリオットがそっと引き留めた。
「はい? どうかしましたか?」
首をかしげるファナの手を取り、エリオットはそのまま執務室に入っていく。
セルジュを待たずに扉に鍵をかけ、全てのカーテンを引いた。
部屋がやわらかな薄闇に包まれる中、彼はファナをソファへと促す。
ふたり並んで座ると、エリオットは自分の左の手のひらを彼女に示した。
「さっき、レオナルトが“術環”を見せてきたの、覚えてる?」
「ええ……はい、それが何か……?」
ファナが不思議そうに応じると、エリオットは手のひらに魔力を通し、術環を淡く光らせてみせた。
「ここの構文。レオナルトの術環には、“女神”を示す構文が組み込まれてた。……覚えてる?」
ファナはじっとその模様を見つめたが、ゆっくりと首を横に振った。
「すみません。模様が複雑で……ちゃんと見ていませんでした」
「ううん、大丈夫」
そう言ってエリオットは懐から紙とペンを取り出し、すらすらと記憶していた構文を描いた。
「これがレオナルトの術環にあった“女神の構文”。で――僕もさ、ファナに見せようと思って術環に魔力を流したんだけど……」
再び手のひらを示し、描いた構文と見比べるように言う。
「……ほら、ここ。わかる? さっきの文字と、違うだろ?」
「あ、ほんと……はい、わかります」
ファナはエリオットのその部分を指でなぞって確かめる。エリオットはもう一方の手も差し出すと、そちらにも魔力を流して見せる。
「こっちも、本来ならここにある。だけど、ね、右手と同じく変わっているだろ?
で、何に変わったか……考えたんだけど、もしかしたらって思って……ファナ、術環を見せてくれる?そう、魔力を流して光らせるだけでいいから――」
ファナの手を取り、手のひらを上に向けさせ促すと、ファナは言われたとおりに魔力を流した。
エリオットはその光を一心に見つめる。
「やっぱり……ほら、ここ。ファナのこの部分も、僕と同じものが刻まれてる。さっきは観察しきれなかったから、即答できなかったけど――たぶん、これは、この前ファナに刻んだ刺青の魔法陣を最小限まで短縮したものだと思う。」
ファナは、何度か自分の手のひらと、彼の手のひらを、視線で行ったり来たりして、それからエリオットを伺い見た。
「……それって……どういう事でしょう……」
「推測の域は出ないけど……僕たちの術環構文が――『契約の儀』の接続を機に書き換えられていたってこと、じゃないかなって、思う。」
「――それはもちろん、エルが意図していない変化、ですよね?
契約の儀って、基本的には聖女側の変化を前提にしていて……今回、エルが行ったのは、あくまで私との魔力回路の接続だけ。お互いに影響し合うなんて、想定外のこと……ですよね?」
ファナは、不安そうに彼を見た。
エリオットはしばらく考えてから、「まさかね」と口の中で呟く。
そして、それから慎重に言葉を選びながら彼女に言った。
「ああ、想定外だよ。でも、最高の想定外だ。今まで僕は、魔法を使う時、女神から魔力を貸与された上で発動していた。でも、今のこの構造だと、僕は女神から切り離されて、ファナ、君から魔力の補助を受けている。つまり――」
「つまり?」
幸せそうに笑うエリオットを少しいぶかしむように、ファナが繰り返す。
「つまり……僕は、僕だけの女神を得たってことだ……」
エリオットは微笑む。その目に、陶酔の光が宿っていた。
ファナが戸惑いかけたその瞬間、彼はふと表情を引き締め、低く続けた。
「……いや、正確には――君の魔力が、僕の術環を塗り替えた。
本来不可能な“構文の書き換え”が、僕に起こってる。ファナ、君の魔力は……浸食性を持ってる可能性が高い」
ファナは思わず、自分の手のひらを見た。
「そして、もしその力が……この世界の魔術構造そのものに作用するなら――」
エリオットはそっと、でも確かな声で言った。
「女神ですら、君の前では例外ではないかもしれない」
「……私が、蝕むように……世界を、書き替えてしまうんですか?」
ファナは手のひらをぎゅっと握りしめ、不安そうにエリオットを見る。
エリオットは、彼女の瞳の揺らめきに気が付くと、慌てて彼女の肩を抱いた。
「大丈夫だ。今のところ変わったのは僕だけ、ファナと直接魔力のやり取りをしている僕だけだと思うから。君が無自覚に他人を浸食するってことはあり得ないと思うよ。」
「それなら……良いのでしょうか……」
ファナがまだ不安そうにしていると、エリオットは彼女の髪に口づけを落とし、なだめるように身体の線をなぞった。
「君に変えられる、なんて、僕の望むところだよ。もう、僕を構成するすべてを君に書き換えてもらいたいくらい――っと、軽口はここまでにして、まじめな話をするとね、『契約の儀』からこっち、ずっと忙しくて確認できてなかったんだけど、なんとなく、自分の中の魔力もかなり変容しているような気がするんだ。」
「……それは、私がエルを浸食……」
また不安の中に落ちていきそうなファナに、エリオットは慌てて弁明する。
「違う違う、これは想定内の話だよ。だって、僕と属性と魔力の共有を図っている時点で僕の魔力の変容は不可避なんだ。
でも、ほら、ファナの魔力や魔法って、精霊魔法寄りじゃない?だから、僕の魔法の中に、言語階層が再構成されてる気がして。あの術環の一部、精霊言語の形に近づいてるかもしれない。だから、僕の魔法に対して、どんなふうに作用しているか……気になっていたんだ。」
ファナはまくしたてるエリオットをきょとんと見上げ、それからクスクスと笑い始める。
彼女の顔から不安が消えたのに、エリオットも胸をなでおろす。
「エルが――私みたいに――“水の子よ、あだなすものを、ほふりつくせ”とか、唱え始めるんですか?
あはは、なんか、すごい、違和感です――」
「うーん、それはちょっとなあ……“アイスブレイド”とかの方が、言いやすいよ。
ってことで、ちょっと試しに行かない?中庭に」
エリオットの提案にファナも笑顔でうなづいた。
もう午後も遅くなり、日差しもずいぶん傾いてきている。
西日に目を細めながら、二人は様々な魔法を試した。
「とりあえず、僕の術環が精霊魔法寄りになっても、文字イメージが有効で良かったよ」
エリオットが肩をすくめると、「そうですね」とファナも笑う。
「でも――僕も試してみようかな……ファナの、カムナギィ式精霊魔法詠唱……」
「え?」
ファナが目を丸くして彼を見る。思い返せば、彼はずっとファナの魔法に関心は持ってしたが、自分からそれを試そうとはしなかった。
「戦うとか――僕の魔法は即物的なものが多い……だけど、ファナの魔法は、世界と調和して、美しい……僕も、そんなファナの世界を……見て見たいんだ。」
はにかんで笑うエリオットに、ファナは胸がいっぱいになる。
「いいですよ、やってみましょう。」
ファナも微笑んだ。
ファナはまずエリオットを中庭の中央に胡坐で座らせた。
自分も彼の前に同じように座ると、軽く目を閉じる。
「精霊との交信は、まず、音や気配を感じるところから始めます。」
ファナに倣ってエリオットも目をつぶる。
しばらく耳を澄ますと、鳥のさえずり、虫の羽音、木々を渡る風のざわめき、そんな自然の音が聞えてきた。
「エル?神経を研ぎ澄まし、音の中に、気配の中に――命の息吹……自分の中の魔力と呼応する声を、感じませんか?」
エリオットは言われたとおりにさらに神経を研ぎ澄ます。外界の音と気配と、自らの中の魔力に全神経を向けた。
それが「わかった」という瞬間は、突然やって来た。
木の葉を揺らした風が、エリオットの頬を撫でた。その風の中の気配が、魔力と呼応し増幅されるのを感じた。
術式を使う時の感覚に似ているが、根本的に違う。
「ファナ、わかった気がする。」
「では、そのエルに応えてくれた気配に、呼びかけて見ましょう。心の内に、『清らかな風が吹くこと』を願いながら。さあ、私に続いて――」
ファナの声を聴きながら、その気配を逃がさないように、集中する。
「《風の子よ――》」
「《風の子よ》」
ファナに続いてエリオットが言うと、気配がこちらに気が付いたことを感じる。
「《木々わたる清き風を――》」
「《木々わたる清き風を》」
気配が動き始めた。
「《ひと吹き》」
「《ひと吹き》」
ひときわ強く風が吹き渡った。
エリオットは、その風の中に、透明な精霊の子供たちが笑ったような気がした。
エリオットは、目を開けて、空を仰ぐ。
ファナもまた、空を仰いでいた。
二人で初めて吹かせた風は、天空へと昇って行った気がしたからだ。
「あ……」
「え……」
その時、二人の声が重なった。
二人が見上げていた空から、ひらひらと蝶のように光が風に舞いながら一粒、こちらに落ちてくるのが見えた。
それはゆっくりと降りてきて、やがて二人の頭上までくると、狙いすましたかのように二人の間に舞い降りた。
それは、一通の封書だった。
白い封筒の表には宛名が一行。
『女神に染まらなかったあなたたちへ』
と書いてあった。




