29 契りの刻
「殿下、遅かったですね。どこへ行ってらっしゃったのですか?」
神殿の大聖堂には、王族に近しい高位貴族や、その名代たちが集まっていた。
置かれた椅子に先に座っていたリリスは、式典が始まる間際になってやって来たレオナルトを見上げながら問いかけた。
「……ちょっと急用が入った。後で説明する。」
椅子に座りながらレオナルトはやや疲れた顔で答えた。
「わかりました。それにしても、エリオット殿下とファナ様、私たちより早く『契約の儀』をなさるなんて、少し驚きました。先日伺った時には、ファナ様はまだ『契約の儀』もご存じなくて、この数日で何があったのでしょうね……」
リリスは不思議そうに首をかしげて言った。
レオナルトは正面を向き、足を組んで目を閉じて、数時間前、いつも涼しい顔の弟が、血相を変えて部屋に飛び込んできたことを思い出す。
――騎士団を動かし、王都を封鎖するよう指示したのは、むしろ当然だった。
弟の聖女は、全属性持ちの『黒曜の座』。
気になって神殿の記録を確認したが――788年前の建国以来、『判定の魔具』を破壊した例など一つもなく、そんな異例の“座”が与えられた聖女も、見当たらなかった。属性だって、近年は偏りが顕著で、全属性を持つ者などここ十代で三人しかいない。それも、せいぜい“記録上”の話にすぎない。
あれほどの魔力があれば、並の隣国などひとたまりもない。
奪われたまま戻らなければ――どう考えても、これは国家の危機だ。
……弟のために動いたわけでは、ない。
「さあな」
レオナルトは、涼しい顔で言う。
「ふふ、今度またお茶会にお誘いして、聞いておきますね」
リリスが嬉しそうに笑ったその時、大聖堂の扉が音を立てて開き、主役の入場が告げられた。
「え?」
リリスを含めた参列者の大部分が驚き、目を見張った。
本来なら、王子のエスコートを受け、緋毛氈を歩んでくるはずの聖女が――王子に身を預け、横抱きにされたまま、静かに入場してきたのだ。
大聖堂の中には、好奇と、わずかに非難の色を含んだ囁き声が満ちていた。
それでもエリオットは涼しい顔のまま歩を進め、彼を先導するセラフィオスら神官たちも、一切を意に介さぬ様子で進んでいく。
やがて、大聖堂の中央に用意された舞台に上ると、参列者も水を打ったように静かになった。
「皆々様、本日はご参列、誠にありがとうございます。かかる日を迎えられしこと、神々のご加護と聖女の御導きに深く感謝申し上げます。今ここに、第三十二代国王アレクシス陛下の御子、エリオット・ヴァルトリア王子と、その聖女、ファナトゥナカ様との『契約の儀』を、厳かに執り行います。」
セラフィオスのあいさつが終わると、『契約の儀』のみで歌われる聖歌が、神官たちによって女神に捧げられた。
その間も、エリオットはファナを横抱きにして、時折額に口づけを与え、参列者たちは驚き囁き合う。
誰の目にも明らかだった――これは、あらゆる意味で“異例”の『契約の儀』である。
やがて、儀式はクライマックスへと差し掛かる。いよいよ、王子と聖女が契約を成立させ、互いが唯一の伴侶となる。
舞台の上に、大規模な魔法陣が展開され、その中央で、初めてエリオットがファナを腕から降ろして立たせた。
「大丈夫、僕を信じて。絶対に手を離さないから。」
エリオットは囁いて、ファナと両手を繋いで指を絡ませる。
彼のぬくもりが離れたファナは、少し不安そうな顔をしたが、すぐに落ち着きを取り戻す。つないだ両手のひらから、エリオットが魔力を少しづつ流していた。
――あと少し。君が君のままでいられるように
エリオットは、ファナのつないだ両手を通じて、静かに魔力を流し続けていた。
神官たちが、契約の術式を詠唱し始める。
魔法陣に青白い光が走り、契約に関わる術式が次々と詠唱されているのがわかる。
その発光は、あくまで王家の正式な術式そのまま――
だがその下で密かに起動しているのは、エリオット自身が組み上げた抑制解除用のサブ構造だった。
通常、本契約が始まれば、聖女の肉体は自動的に再構成され、王子と“魔力や属性を共有”し“生殖可能な存在”へと作り替えられる。
だが、ファナは既に、刺青によって完成している。
特に肉体の再構成は、彼女にとって破壊と同義だった。
だから彼は、再構成を途中で無効化する術式ブロックを設計した。
正規の術式が“動いているように見せかけたまま”、その機能だけを空洞化させる。
外見上は何も異常はない。契約は進行し、術陣は輝き、参列者たちは見守っている。
だが彼の中では、誰にも気づかれないように、密かに叫び続けるような魔力操作が繰り返されていた。
「――エル……」
ファナの声が、かすかに震えていた。
――大丈夫。絶対に、やれる
エリオットは、視線で彼女に訴えた。
契約の術式詠唱も、いよいよ終わりに差し掛かった。
再編成の術式はすべてブロックし、ファナとの非接触の永続的な魔力と属性の共有を可能にする、“共振導路”の確立の段階に入っていた。
相手の魔力回路を解析し、自己魔力を重ね合わせることで、擬似的に同調接続する仕組みで、一度回路が繋がれば、距離も、肉体の隔たりも関係ない。あたかも、ふたりの魔力が“見えない回廊”を通って行き来しているようになる。
精密な詠唱を繰り返し、最後の段階までたどり着いた。
あと一つ、お互いの魔力を交換すれば“共振導路”は起動し、魔力と属性が共有され続ける。
「ファナ……いけるよ。手順通りに」
エリオットは微笑みながら、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「はい……」
ファナも視線を返し、そっと目を閉じて、唇をゆるやかに開く。
エリオットも軽く目をつぶると、彼女に深く口づける。
「ん……」
ファナが少し眉根を寄せた。
今までは、一方的に魔力を飲み込んできた。
しかし、今度は、交換しなければならない。
ファナはおずおずと彼の口腔へと舌を進める。エリオットの身体が一瞬はねた。そのまま彼が吸い上げる。ファナの頬が羞恥で赤く染まってゆく。
その時である。とうとう契約が成った。
ファナの背後に、青白い燐光を放つ鹿の幻影が立ち上がった。その角は幾重にも枝分かれし、そこに小さな花々が咲き乱れている。風もないのに、光の花びらがふわりと舞い上がる。
エリオットの背後にも魔法陣のような光の環が浮かび上がる。そこには彼のこれまでの人生を現す様々な文字が刻み込まれ、彼の属性を現す緑と青の光のしずくが煌めいた。
参列者や神官たちからどよめきが起こる。
先代王子と聖女による契約の儀は、今からおよそ二十年前のことだった。前回の契約儀を目にしていた者たちでさえ、今この場の異質さと荘厳さに、言葉を失っていた。
二人の唇が離れると同時に、光がはじけ、幻影が消える。
誰一人身じろぎ一つしない。
大聖堂は静寂に包まれた。
「ここに、王子エリオット・ヴァルトリア殿下と、聖女ファナトゥナカ様との契約、厳かにして無事、結ばれましたことを宣言いたします。」
静寂を破ったのは、セラフィオスの宣言だった。
レオナルトとリリスが、いち早く拍手を送り始めると、参列している貴族たちもそれに続く。
エリオットとファナは寄り添い合ったまま参列者の方へ向き直ると、胸に手を当て、礼をする。
ファナがエリオットを見上げて微笑んだ。
それは――エリオットが彼女を取り返してから、初めての微笑だった。
参列者たちが、温かなささめきに包まれて神殿を後にする頃――
夕日に照らし出された王子と聖女の控室では、二人だけの秘めやかな時間が流れていた。
鍵は、部屋に入ったときに、エリオットがかけた。
ソファーで身を寄せ合い、何も言葉は交わさず、ただ互いのぬくもりを確かめていた。
室内には、重なり合う気配と、かすかな息づかいだけが満ちていた。
やがてファナは、エリオットの肩に額を預けたまま、小さく息を吐く。
「……帰りましょうか」
エリオットは、黙って頷いた。
そのまま、しばらく身支度もせず、互いの鼓動を感じ合っていた。




