02 トカプノヌプクシルではない
「とりあえず、食事にしよう。君、ずっと何も食べてないだろう?」
気を取り直したエリオットは、ファナの手を引いて立ち上がらせた。
ファナはまだ状況が呑み込めないようでおどおどしている。そんな彼女を見てエリオットはまた困ったように眉を下げたが、ベッドサイドにあったベルを鳴らして侍従を呼んだ。
「食事を。」
「こちらでお召し上がりですか?」
すぐにやって来た侍従は、目覚めたファナを一瞥すると落ち着き払って聞いた。主の聖女に対する興味は抑えきれないほどあるものの、じろじろと見詰めてしまうほど無遠慮ではなかったし、王子の侍従である矜持が許さなかった。
「ああ。目覚めたばかりだら、何か軽い物を。後、湯あみの準備もしておいてくれ。」
エリオットの指示に侍従は一礼して退出する。
食事はすぐに用意されたものの、遅々として進まなかった。
「なっ…なんですかっこれ!」
ファナは用意された磁器の器に盛られたスープと、銀のスプーンを触ることもできず、おっかなびっくり眺め回す。
「うーん、かの世界とこの世界は共通点も多いって書いてあったけど……違うのかなぁ。この器の中身は、スープだね。今日は、コーンポタージュかな?銀色のこれはスプーン。こうやって、すくって食べるんだ。」
エリオットはスプーンでひとすくい、食べて見せる。
ファナはパチパチと二回瞬きした後、そーっと指を伸ばし、スプーンに触れたかと思うとすぐに手を引っ込める。
「大丈夫。噛みつきゃしないよ」
エリオットは苦笑しながらもう一口食べて見せた。
それを見ていたファナは、意を決っしてにスプーンをつかんだ。
「こういう風に持つんだ。この方が食べやすい。」
エリオットがスプーンを持って掲げて見せると、ファナもその通り持ち直し、ひとすくいして食べてみる。
「お……おいしい……こんなにおいしい物、初めて食べました。」
「そうなのか?君と同じ世界から来た聖女の好物だったって聞いたんだけど。」
「甘くて……すごく塩味がして、海辺の村で食べたスープみたい。香りも、すごくいいですね。」
ファナは次々と口へ運び、あっという間に平らげてしまった。
その後出された肉料理の柔らかさに感激し、サラダに使われている野菜に驚き、パンには畏怖の念すら抱いていた。
食事が終われば、ファナは浴室に放り込まれた。
侍女に磨かれると、彼女の肌が驚くほど白いことと、髪が恐ろしく長いこと、刺青はほぼ全身に施されていることが分かった。
入浴の後に清潔なリネンの部屋着を着せられ、再びエリオットの前に立ったころには、夜もすっかり更けたころだった。
「ずいぶんさっぱりしたね。」
すっかり部屋着に着がえ、また読書をして待っていたエリオットが微笑むと、ファナはうっとりとした表情で、髪をタオルで拭きながら言った。
「ありがとうございました。あのような湯につかるのは初めてでした。信じられないくらいおいしい食事に、気持のよい湯あみ、ここはまさにトカプノヌプクシルとしか思えません」
「それは良かったけれど、君がさっきから言っているトカ……なんとかって何なの?」
「トカプノヌプクシルは、全能の神が統べる常春の地。この世での生を終えた祖霊が辿り着く場所です。苦しみも悲しみもない、素晴らしい場所で、あなた様のような美しい人々が住まうといわれています。」
美しいと真顔で言われて、エリオットは居心地悪げに目をそらす。
「じゃあ、トカなんとかは、僕たちでいう天国みたいな場所だね。でも残念ながら、ここは天国じゃない。リューセイオン王国という王国だ。そして、君は聖女としてこの国に呼び出された。」
「そう……なんですか……?」
ファナは戸惑いを隠せず、無意識のうちに首から下げている緑の石を握りしめた。
「ああ、許可も得ず、突然連れてきてしまうのはひどいことだと思うんだけど……、というか、君の世界では聖女召喚や異世界転移がよくある物語として好まれていて、歴代の聖女は説明しなくてもすんなり納得したって聞いていたんだけど……君はそういう話、知らない?」
「うーん……知らないですね。」
「そうなんだ。この国では王族の血を引く男子が成人すると、聖女をひとり呼び出す習わしがある。聖女は女神との約束で世界を渡り、世界を渡るときに大きな魔力や特別な魔法を授かる。そして王族は聖女と契約を結ぶことで、魔力の加護を授け、神の意志をこの地にもたらす……建前はね。」
「建前?」
ファナが聞き返すと、エリオットは用意されていたティーカップに口を付け、皮肉気に口角を上げた。
「ああ、でも実際には、“政治と戦争”の道具だ。強い魔力を持った聖女を誰が得るかで、権力の行方が決まる。」
「この世界には、“戦争”があるんですか?」
「君の世界にはないの?」
ファナは静かにうなづいた。
「はい、でも海の向こうの神々の世界にはあったという伝説はあります。戦争によって神々は滅び、生き残った一部は海を渡り、小さく弱い人間になって、戦争をできなくなったと……、人間同士で争うのは、愚かな行い、破滅への道だと、言い伝えられています。」
「すごいね。争い、殺しあうのは人間の本質だと思っていたよ。残念ながらこの世界には戦争がある。しかも、戦争は人間とだけではない。我々が魔物と呼んでいる勢力が、我々人間から大地を奪おうと常に狙っている。彼らは統率こそ取れていないものの、年々その勢いを増していて、被害もバカにならないんだ。王族は聖女と契約しその膨大な魔力で他国をけん制し、魔物から民を守らねばならない。」
エリオットは右手をかかげると、その指先から水でできた蝶を出して見せ、ファナの周りを飛び回らせた。
「すごい、綺麗……」
ファナは思わず手を伸ばす。
「魔法だよ。僕は水と風に関する魔法が使える。あんまり強くはないんだけどね。世界を渡った君も、多分使えると思う。」
「私にも……使えるんですか?」
ファナは自分の手を開いたり握ったり、信じられない様子で見つめた。
「ああ、今日はもう遅いから、明日になったら教えてあげる。属性や強度も測れるように、神殿に手配しておくよ。」
エリオットはファナに微笑みかけると、本をもって立ち上がった。
「ありがとうございます。楽しみです!」
「うん、じゃあまた明日。朝になったら迎えに来るね。」
エリオットは、つられて立ち上がったファナの手を取りその指先に口づけると、侍従を従えて退出していった。
もちろんファナの世界には、そんな風習はなかったが、その美しい仕草にはからずも頬を染めることとなった。
ファナの部屋を出て、自室に向かうエリオットは、歩きながら侍従に指示を出す。
「神殿にファナの属性判定と魔力強度評価の申請をしておいて。リリス嬢の判定は行われたのか?」
「はい、本日の午後行われまして、先ほど結果がこちらにも伝えられました。元からお持ちになられた風属性に追加して、火属性と聖属性を得たようです。」
「へぇ、風と火属性ならレオナルトと同じだね。聖属性もちゃんとついていたってことは、一安心だな。」
「ただ、強度の方が芳しくなく……『緑柱の座』だそうです。」
侍従はエリオットの自室の扉を開けながら言う。
「『緑柱の座』?それだと、あの公爵家のエリザベータ嬢より低いじゃないか。リリス嬢は元からそんなに魔力は強くなかったのかい?」
「いいえ、元から『藍玉の座』はお持ちでしたから、貴族令嬢としては優秀な部類です。しかし、召喚を経て世界を渡った結果として、一階級しか上がっていないのには、レオナルト殿下もいささかご不満なようで、対外的には二階級上げての『青玉の座』と発表なさるそうです。調度品もその格でしつらえると……」
エリオットは持ち出していた本を書棚に戻しながら少し考える。
「レオナルトがやりそうなことだね。陛下が黙ってるならそれでいいんじゃない?でもやはり、これも最近の魔力低下の影響なのかな……でも、聖女召喚にまで影響してくるなんて、いったい何が起こっているんだろう……まあいいや。じゃあ、手配の方頼むよ。」
侍従は深々と礼をして、音もなく扉を閉めて退出した。
エリオットは寝るまでのしばらくの間、窓の外に広がる月明かりに照らされた原初の森を眺めて物思いにふけっていた。